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日本機械学会計算力学部門業績賞を受賞して
北川 浩
大阪大学工学部機械工学科
ただ今は、大変に名誉ある賞をいただきました。非常に光栄に存じておりますと共に感激を致しております。このような形でお褒めいただくようなことが果たしてできていたのかどうかを冷静に振り返える時期が来ればいささか恥ずかしい気持ちになることは必定ですが、今は気持ちが大変に高揚しておりまして、そんな余裕もございません。ただ厚く感謝申し上げる次第です。ご挨拶をさせていただく機会をいただきましたので、もともとの関心を持って進めておりました連続体塑性力学の分野を離れて、どうして分子/原子モデルを用いる解析にこだわって研究を行うようになったのかについて、計算力学の将来を担われる若い方々に託すべきメッセージのとしてお話をさせていただきたく存じます。
計算力学は、理論的方法論、実験的方法論と並んで、第3の素晴らしい自然探求のための方法論であると言われています。しかし、これは単純に信じ込んでよいことなのでしょうか。私には、計算力学が、単に便利なツールであることを超えて自然科学の方法論となるためには、克服すべき大きな問題があるように思えてなりません。それは、これまで30年ばかりの間、計算力学の分野であちらこちらさまよい、頭をぶつける度にこだわってきたことでもあります。
若い頃などという言葉は本当は使いたくないと思いながらついつい口にしてしまう年齢になっておりますが、若い頃、ルクレチウスの叙事詩「物の本質について」を読んで、“万物は空虚なる空間とその中を運動する滅びることないアトムからできている”と言う言葉に出会ったとき、古代原子論者によって、“自然界に生起する事象の驚くべき多様さ、複雑さとその持続が、究極的にはきわめて単純な構造のダイナミックスによって作り出されている”ことが見事に見抜かれていることを知ったとき、直感力のすごさに感嘆すると共に、それを今度は、誰にも共有できる五感を通じてリアルに認識してみたいものだと強く思ったことがあります。これが原子モデルを用いるシミュレーションに入ったきっかけであるなどといえば、あまりに格好が良すぎるのですが、あこがれというか一途な想いやこだわりが大きく人を動かしていくことは事実ですので、これも一つのきっかけであったと思っています。
本当のところは、連続体力学は一体何を予見するのかに対する不信感というか、連続体力学に含まれるパラドックスに気付いたためです。これは、より有効に連続体力学を利用しようとすればするほど、より精緻な解析モデルを挿入すればするほど、迫ろうとする実体が逃げていってしまうというパラドックスです。中途半端な説明をするとお叱りを受けそうですが、連続体力学を用いて物質界に生起する事象を解明するという考え方には、避けがたい自己矛盾が伴います。それは連続体力学が数学であって物理学ではないからです。つまり、完結した理論体系になっていますので、演繹的な推論によって一つの矛盾を含まない自然の仮想像を得ることはできますが、それ独自では実体としての自然の何を捕まえているのかについては何の正当性も主張もできないのです。
私たちが知りたいのは、見えない、感じることができない物体の内部で何が生じているか、具体的には、応力とひずみはどのような分布をしているのか、それが未来に向かってどのように変化していくのかといったことです。連続体力学ではまず物体系の運動の幾何学を書きます。それに力学法則(広く言えば物理法則)を導入します。この物理法則は、必ず塊としての物質系に対して大域的に書かれます。そして、物質の特性を表現する構成式(平たく言えば応力とひずみの関係)を加えて数理理論として完結したものにします。ここで注意すべきは、物理法則を物質の塊に対して書いたことと連動して、この物質の性質を論じる部分は外部から、理論の枠内では扱えないものとして外から持ち込むことになる、力学理論から見るとそれは公理(axiom)のようなものとなるのです。
ここでこの連続体力学を用いて現実的に目の前にしている物質系を見ようするときに、鋭く見抜いておかなければならないことがあります。それは、我々は、どのような手段をもってしても、経験的には均質で平衡状態にある物質系の特性しか見ることができないことです。外部から、力学理論の枠外から持ち込む知識は、高々そのようなものなのです。従って、外から持ち込む知見をできる限り綿密に力学理論の中で生かそうとすること、言い換えると、構成式の表現を精緻化すればするほど、平衡状態を記述することに懸命になっていることにしかならず、力学理論によって本来解明できるもの、解明されるはずのものがどんどんと減っていってしまう、物質系の本質、ミクロ状態にアクセスする道筋を失うことになってしまうのです。より正確には、構成式の定式化の方法論として準備されている手順を注意深く点検すればよくわかります。決定の公理、局所作用の公理、減退記憶の公理、散逸の公理、こうしたものをより活用すればするほど、物質のミクロ状態はきわめて複雑であるからそれを物性値と名付けて、借りものの知識で間に合わせてしまおうというイージイな考え方が表面に出てきて、ミクロ状態に切り込むための力学的道筋を失うことになってしまうのです。
連続体力学の方法論をより綿密に用いようとすると、物質系を見る本筋を見失うことになると言うパラドックスがここに存在します。
私は、もともと有限ひずみ塑性論の分野で多少なりとも計算力学に寄与してきたと思っておりますが、この仕事は、大阪大学工学部に職を得たばかりのとき、現在神戸大学の教授としてすばらしい仕事をなさっている冨田先生が私の所属していた研究室に学生として来られた折りに、2年先輩の瀬口先生(計算力学部門功績賞の第1回目の受賞者であった瀬口先生は、まことに残念なことに、先年、急逝されました)をリーダーとして、共同研究として始めたことでした。この共同研究はなかなかの成果を生みましたが、これは瀬口先生の的確に先を見る目と、冨田先生のきわめて正確なそして高度に訓練された力学解析、分析力的なでもってできたことだと思っています。この仕事が一区切り進んだ段階で、私は非平衡熱力学にのめり込み、散逸系、自己組織形成系に力学的にアプローチすることこそ物質系の本質に迫ることであると思うようになりました。
つまり、ミクロとマクロをつなぐのは、力学そのもののであって数学ではない、言い換えると構成式の定式化論ではないと強く確信するようになったのです。言葉を換えますと、構成式の定式化論は、マクロ事象はミクロ過程の結果生じるもの、つまり、因果律的視点に立っています。多様な複雑さを時系列的な平均値として見ている、おおざっぱに言えば、エルゴード性を暗に仮定しています。これでは、力学的に見えるはずのものも見失われれたしまうと思えてならないのです。“こうした構成論的因果律の克服なくしては、力学理論によって物質系の複雑さを知ることは決してできない。因果律は力学場の解析の中に陽に取り出すべきものである。” この思いが、力学法則はミクロな物質系にこそ適用すべきであって、マクロ系に適用してみても、トートロジカルなことを乗り越えて何も得られないという考えに変わり、無謀にも量子力学までを持ち出して、原子の世界を計算力学に持ち込むことになったということです。
しかし、物質系はこんな思いこみで切り込めるほど単純なものでは決してありません。これまでにない世界をごくわずかのぞき見できたかなといった程度のことしかできておりません。まだまだいくつものブレークスルーが求められています。これからの世代を担う方々に全面的な期待をいたしている次第です。 何となく理屈っぽい話に終始してしまい申し訳ございませんでした。
改めて感謝の意を申し述べて、ご挨拶といたします。
(1995年11月15日 長野県JA会館にて)