卓球ボール径変更(38ミリから40ミリ)裏話
大阪大学大学院工学研究科機械物理工学専攻 辻 裕
事の始まり
福井大学の山本富士夫先生から電話があったのは,平成5年の夏も終わる頃である.山本先生は現在福井大学の工学研究科長を務め,流体の可視化のエキスパートとしても著名であるが,卓球に関しても半端な関わりではない.山本先生は(財)日本卓球協会の福井県の理事長も務めたほどで,かつては試合にも数多く出場し,流体工学の他に卓球を専門としていると言ってもおかしくない.北陸地方での卓球の公式試合の際,山本先生は国際卓球連盟の当時の会長であった故荻村伊智朗氏から卓球を科学的に分析する依頼を受けた.荻村氏は年輩の方には卓球の往年の大選手としてよく知られている.荻村氏の選手現役時代は華麗なドライブで数々の栄光を手中にし,1950年代半ばから1960年代始めにかけてはスポーツ界のスーパスターであったと言っても言い過ぎではない.その後は,日本オリンピック委員会の国際委員長として卓球に限らずスポーツの国際交流の面で幅広く活動された.山本先生が筆者に声をかけたのは,自分もまた下手ながらも健康維持のため時々学内で卓球をすることと,専門の混相流研究の基礎として球の運動に関する実験や数値計算を行っていることによる.話があってから幾度となく打ち合わせをする内に,一度関係者が集まって意見交換する場を持ちましょう,ということになった.そこで平成5年10月,「卓球ボールの運動シミュレーションのワークショップ」と題する会を阪大工学部機械系会議室で開催する運びとなった.ついでに我が研究室でボールのコンピュータ・アニメーション画像を参加の皆さんに見せることになった.(このページの図をクリックすれば計算結果を見ることができます.)当日,山本先生や筆者のような力学サイドの研究者,スポーツ科学の専門家,荻村氏や全日本チーム監督などの卓球関係者が集まった.この他,用具メーカの人や新聞記者,さらに学内の卓球愛好者の方もオブザーバとして参加した.
テレビ放映の少ない卓球
ワークショップにおいて荻村氏が,なぜこのような話を我々に持ちかけたかについて述べた.氏によれば,卓球を楽しむ人の数というのは着実に増えている.自らプレーをする人の数でいえば,野球人口よりも多いという.ところがバルセロナ・オリンピックでのテレビ放映では,射撃やアーチェリーとならんで最も放映時間の少ない競技の一つとなっている.射撃やアーチェリーでは弾や弓がテレビに写らないので面白味がないのはわかる.卓球の場合はどうか.一応,球は見える.しかしラリーが続かず,プレーがあっけない.テレビ放映での卓球のマーケッテイング価値が益々低くなっていると.そういえば男子テニスもサーブで勝負がつくことが多く,ラリーの続く女子テニスの方が見ていて楽しい.ただし最近はウイリアムズ姉妹のように男性顔負けの強烈サービスも登場している.自分自身でプレーする人にとっては,ノータッチ・エースは,そこに至る技術の修練がわかるので,それなりに感動的であるが,一般の視聴者にとっては,ラリーがほどよく続いた後,華麗でダイナミックなショットで勝負がつく方が面白い.バルセロナ・オリンピックで,卓球競技での観衆の歓声がどのようなプレー大きかったかを調査したら,7回から8回のラリーが続いた後,ボンミスでなく鮮やかなショットで勝負が決まった時が最も歓声が大きいという統計が出た.チームの応援団の歓声を除外してとった結果である.ところがラリーの平均回数は,サーブを1回に数えて3回から4回で,ラリーの平均所要時間は3秒から4秒という.この時間は一般の観客やテレビ視聴者には余りにも短い.この理由ははっきりしている.サーブの技術が巧妙になり,はた目にはつまらないミスで返球に失敗するか,精いっぱい返してもイージボールとなり,次に討ち取られる.また,選手の体力の向上によりボールのスピードが増し,一度決められると返せない.その結果ラリーは続かない.
ルールの改正
卓球界では今に限らずラリー持続のための配慮は絶えずなされており,その度にルールが改正されている.例えば,台の下からサーブを送ることが許されない.サーブを打つ瞬間を相手に見せないことを許すと,とても返球できないサーブが来るからである.ラリー中にラケットの面をすばやく変えて,球種の異なるボールを返す技術がある.この技術によって同じようなフォームから回転の異なるボールが打ち出されるので,相手のボンミスを招き,結局ラリーが続かない.そこで両面を使う場合,どの面で打っているかが相手にわかるようにラバーの色を面によって変えなければならないとする規則ができた.またプレーの前に相手のラバーを手に取って確認することが許される.その他,有機溶剤を使ってスポンジを一時的に膨らまし,スピードやスピンの増大がはかられたが,そのような有機溶剤が人体に有害であるという理由で,使用が禁止された.そのような措置はラリー持続の意味でも必要である.一方,カットを主体とした守戦型の選手が対戦し,互いに守戦にまわると,際限なくラリーが続けられ勝負がつかない.長すぎるラリーを防止するため促進ルールと呼ばれるルールがあり,レシーバが13回連続して返球をしたら,そのラリーで自動的にサーバは負けになる.従ってサーバーは攻撃しなければならない.このルールにより長すぎるラリーに対する対策はできている.問題はラリーが短いことなのだ.
なんとかラリー数を増やすことができないか.そこで考えられるのは,ラバーの材質や厚さにどのような制限を加えればよいか,ということとボールの流体抵抗を増やしてスピードを押さえられないか,ということである.他にネットの高さや台の広さを変えることも考えられる.荻村氏自身は,同じ重量のボールやネットが過去70年以上も続いており,変更には慎重な立場を取っていた.ネットの高さを変えることのついでに,このような話もワークショップで披露された.今年ワールドカップで大いに盛り上がったサッカーでも,点が入ることが少なく,0対0のままPK戦に入ることは珍しくない.これはある意味では退屈である.ゴールを少し広くすれば,もっと点が入るのは確実である.ところが,話はそう簡単でない.サッカーは,公認のくじによって世界の多くの国々で政府や地方自治体の大きな財源となっている.この収益によってスポーツその他の経費が賄われているという現実がある.くじでは1点差,2点差,引き分けなどの予想をマークシートに書き込む方式が定着している.ここでゴールを広くし大差のゲームが続出するとくじのシステムが大きく変わり,大混乱が必定だそうである.従って安易にルールを変更できないのだ.
ボールの重さ
筆者にはワークショップの開催前に日本卓球協会の中のスポーツ科学委員会(現在はスポーツ医科学委員会)の油座委員長から具体的なテーマが与えられていた.そのテーマとは,その当時の公式球の重量2.5グラムを2.45グラムにしたら,球の速度はどの程度変わるか,ということであった.この問題をカットやドライブの回転をも考慮して計算で予測するのである.荻村氏は世界卓球連盟の会長であり,2.5グラムから2.45グラムへの変更は荻村氏の指揮の元で国際卓球連盟内で重さの変更が検討されていた.ドイツやフランスの委員は自国の研究者による計算結果をよりどころに意見を述べているが,日本では手持ちのデータがないため,何となくおかしいと思いつつも,日本の代表は一方的に聞き役にまわらざるを得ないのだそうだ.とにかく自前のデータが欲しいと荻村氏から言われたことを今でも覚えている.
そこで,流体力学で知られている流体抵抗や回転揚力の公式を用いて軌道計算を行った.この種の計算は野球やゴルフボールの場合,しばしばなされており,流体力学の問題としては別段新しいことは何もない.計算の結果,相手が打った瞬間から打球が届くまでの時間に関して比較すると2.45グラムのボールは2.5グラムのボールに比べ1.7ミリセカンド遅くなる.この結果に関しワークショップで面白い意見の食い違いがあった.筆者は,この差は人間の知覚能力を越えているというのに対し,一部の出席者は一流選手ならば絶対にわかると主張した.室温が変われば空気の物性値が変わり,その結果,抵抗が変わる.上で述べた程度の差は,空気の温度が0℃なのか30℃かの違いで生じる差と同程度である.一流選手は0℃の時と30℃でボールの速度の差がわかるのか,と反論した.しかし,よく考えてみるとこちらの意見も浅い.国際級の選手のボールスピードは時速100キロメートル以上に達するが,その場合に相手の場所での2.5グラムと2.45グラムのボールの距離の差は4.7センチメートルになる.2.45グラムへの変更がラリーを持続させるほどの効果があるかどうかは怪しいが,一流選手にとって数センチは小さくはない.なぜなら彼らは現に数センチのオーダでコーナぎりぎりにボールをコントロールする技術を持っているのである.これに関連し,当時の全日本監督から実際にあった高地の国での失敗談が披露された.現地入りした日本チームの選手のボールは台を飛び出し入らない.高地では空気の密度が小さく球に対する空気抵抗が減るから低地での感覚で打つとボールは飛びすぎるのである.現地入りから試合までに十分時間を取らない日程で参加した日本チームは,空気抵抗の変化になれないまま試合にのぞみ惨敗を期したという.
荻村氏逝去
後でわかったことであるが,阪大でのワークショップ開催の頃にはすでに荻村伊智朗氏は癌におそわれていた.ワークショップからしばらく経って荻村氏入院の報を受け,それからまもなく平成6年12月に亡くなった.享年62才であった.卓球をより魅力あるスポーツにするためには従来の習慣にとらわれない人であった.今では常識であるカラーボールや,台の色も濃緑だけでなくブルーにしたのも氏の発案と聞いている.荻村氏の逝去後しばらく,ボール運動の計算はとん挫した.しかし,国際卓球連盟ではボールの変更は継続的に審議されていた.国際卓球連盟の会議は世界選手権大会に会わせて開催されるのが通例で,ルール変更などの重要な決議がこの会議でなされる.第45回世界選手権はユーゴスラビアで開催されることが決まっていたが,ユーゴ紛争で,急遽,会場がオランダのアイントホーフェンに変更された.世界選手権では団体戦と個人戦が行われるが,この時(1999年)に初めて個人戦だけの大会となり,団体戦は翌年(2000年)マレーシアのクアラルンプールで開催された.オランダの大会の前頃からボールの直径を38ミリから40ミリに変更する案が浮上し,再び筆者に計算依頼がきた.この頃には(財)日本卓球協会からスポーツ科学委員会委員の委嘱状を正式にいただくようになった.(現在はあつかましくもスポーツ医科学委員会の副委員長を拝命している.)ボール径だけでなく重量,空気温度,気圧など種々に変化させ,研究室の学生の手を借り,せっせせっせと計算を行い,その結果は直ちに国際卓球連盟の用具委員長のもとへ送られた.
ボールの直径
結論を先に述べると,同じ初速度で打ち出された場合,38ミリと40ミリとの速度変化の差はほとんどない.あったとしてもきわめて小さい.大きくなったことにより空気抵抗が増加するという点だけを見れば,速度は減少するかにみえるが,重さの影響を考慮しなければ片手落ちである.もし40ミリボールが38ミリボールと同じ重さ2.5グラムのままであれば,確かに速度は減少する.しかし,2.5グラムの重さの40ミリボールを試作し,それを選手に打たせたところ,セルロイドの厚さが減ったため打った瞬間ペコン,ペコンという感じがして打球感が悪く,実際に使った選手からは違和感があると総スカンを食った.またそのような40ミリボールを作るには,セルロイドの厚さを0,8ミリから0,72ミリに減らさなければならない.厚みを薄くすると真球を製造することが一層困難になる.従って,40ミリボールを採用するには,それまで採用されていた38ミリボールの重さである2.5グラムより重くせざるを得ないのである.ちなみに,38ミリボールのセルロイドと同じ厚さを40ミリボールに持たせると,その重さは2.77グラムになる.
セルロイドの厚さが同じ場合,ボールの直径を大きくしても運動に影響しないことは簡単に証明できる.ボールの運動は,ニュートンの第2法則,つまり,
質量*加速度=外力 (1)
に支配される.外力として空気抵抗,回転による進行方向に垂直な力,重力などが含まれる.今,簡単のため空気抵抗だけを考えてみよう.空気抵抗は経験的に
空気抵抗=抵抗係数*動圧*球の断面積 (2)
という式で与えることができる.この中で抵抗係数は,卓球ボールの通常の速度の範囲(時速50キロから時速150キロ)であれば,ほぼ一定と見なすことができる.動圧は空気の密度と速度の二乗に比例する.断面積はボールの直径の二乗に比例するので,ボールが大きくなることで空気抵抗が増加することは事実である.しかし上の運動方程式の左辺(慣性力)に目を転じると,質量が加速度にかかっているので,運動を考える場合,質量抜きで論じても意味がない.さて,この質量はセルロイドの体積に比例する.(ボールの体積ではない.)セルロイドの体積はボールの表面積と厚さの積である.ボールの表面積はボールの直径の二乗に比例する.もしセルロイドの厚さが同じであれば,左辺もボールの直径の二乗に比例し,右辺も直径に二乗に比例するのであるから,きっちり直径の増加分は相殺される.
2ミリの差大論争
上で証明したことは,初速が同じ場合,その後の運動は変わらないということであり,大きくなったことで初速自体が減るという効果は残る.しかし卓球ボールの運動の特色はボールが軽いことにあり,そのため空気の種々の特性値の影響を受けやすいことにある.上で述べたように動圧が空気の密度に比例する.この密度は大気の圧力や温度の影響をもろに受ける.圧力は高度が増すほど減少し,その結果,密度も減少する.高地でボールがよく飛ぶのはこの理由による.これらの影響は2ミリの差を飲み込んでしまうくらい大きいと考えられる.
以上のように述べると40ミリに変更する意味が全くないかのような印象を与えるが,これはあくまでも空気力学的な影響に関して述べているだけである.40ミリボールを実際のプレーで使ってみると,見やすいという事実は誰も否定できない.見やすいことは守り易いことに通じるので,ひょっとしたらプレーが面白くなる可能性はある.また同じ力で打った場合,初速も遅くなる.しかし,決定までの数年間の40ミリボール論争を振り返って見てみると,滑稽とも言える論議が交わされてきた.空気抵抗が増えて速度が減るということがきちんとした根拠に基づいていないことは上に述べた通りであるが,驚くほど幼稚な意見も飛び出した.テレビ写りがよいというものや観衆からボールが見えやすいというものである.テレビ画面が縦に480,横に640の画素(ピクセル)から成っていることを考えた場合,ボールだけを拡大して写す場合はともかく,数メートル離れた位置から撮影された映像の中でそのような差を画素がとらえきれるものでないことは小学生にでもわかることである.
1999年のオランダの会議で,38ミリから40ミリへの変更案が正式に取り上げられた.その結果,僅少差で変更案は否決された.ただし,時期尚早ということで,もっと慎重にという結論であった.筆者が提出しづけた計算結果がどの程度議論に影響を及ぼしたかは定かでないが,少なくとも国際卓球連盟の用具委員長は計算結果を意識していたはずである.しかし,変更への大きなうねりはこの段階でできていた.そして翌年(2000年)のマレーシアでは圧倒的賛成多数で正式に40ミリに決定された.公式試合での実施はシドニーオリンピック以後と決まった.プレーする者にとって見やすいという真実だけを出張すべきであったのに,変な理屈を付けたためにかえって決定が遅れたのではないと個人的に思っている.
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むすび
最後に流体屋として,卓球ボールの持つ奥深い面についても述べてみたい.筆者の研究室では,互いに接触している数十万個の粒子運動の軌跡計算を行っている.それに比べると1個のボールの運動計算はきわめて易しいかに見える.上では非常に簡単に話を展開したが,ボールが軽いという性質は流体力学的には複雑で興味ある問題を内包しているのである.2ミリというわずかの差を問題にしているので,他にもあるわずかな影響を並べてみると,次から次へと疑問がわいてくる.例えば,内部に封入されている空気の影響はいかほどなのか.ボールの回転が変わる場合,内部の空気の慣性力も影響するはずである.内部の空気に与える温度の影響などもある.温度によって内部の空気の圧力が変わるので,弾み方が異なってくる.ボールとラケットの反発に関しても,ラケットの材質以外でも流体力学的にも微視的に見たら現象は単純ではない.つまりラケットに当たる瞬間を微視的に見るとボールはラケットとの間にある空気を押しのけながらラケットに接近する.ボールが軽い場合には,反作用としてボールの速度が減じる.これは流体力学では潤滑効果と呼ばれるものである.このような種々の現象は他のボール競技にはない卓球の特徴と言える.
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