競泳用水着開発の流れ
筑波大学体育科学系 高木
英樹
三重大学工学部エネルギー環境工学研究室 清水
幸丸
1.はじめに
残念ながら,ヒトは泳ぐことに決して適しているとは言えない.ヒトの泳ぐ環境は,レイノルズ数(Re=2.5×〜3.5×)から察すると,表面の流れが層流から乱流へと遷移し,摩擦抵抗が増大する局面である.さらにフルード数(Fr=0.4〜0.5)から見ても,造波抵抗が最大となる局面に当たる.このように,ヒトにとって泳ぐことは抵抗との戦いであり,抵抗にうち勝った者だけがチャンピオンの栄冠を手にすることができる.そのため,少しでも抵抗を減らしたいという願いは,泳フォームの改善はもとより,水着の改良にも及んだ.しかしToussaint
et al.[1]によれば,ヒトが泳ぐような高いレイノルズ数(Re>)では,摩擦抵抗が占める割合は総抵抗の5%程度とされ,水着の影響は小さいとする見解もあるが,1/100秒を争う競泳にとって,抵抗節減のためのあらゆる可能性を試すのは当然のことだろう.
2.究極の水着とはなにか?
これまでも,各スポーツウェアーメーカーは,泳者の泳ぎを妨げることなく,できる限り抵抗の少ない水着の開発にしのぎを削ってきた.1980年代,開発の焦点は,水着の素材やカッティングを工夫し,できる限り水をはじき,軽く,薄く,身体に密着することであった.さらには,大胆なカットを取り入れ,水着で覆う面積を小さくし,水着の中に入り込む水をいかに排出するかに重点が置かれた(田古里ら[2][3]).
その後,バルセロナ五輪(1992年)を経て発想は大きく転換された.それまで水着の表面は,滑らかで撥水性が高い方が良いとされてきたが,境界層制御理論の応用が新しい水着を生み出した.実は境界層制御理論に基づいた製品の性能試験は,既にその何年も前に試みられていた(冨樫ら[4]).しかし当時開発されたゴルフボールのディンプルをまねた水着は,思うような成果が上げられず,その上,大変着心地が悪く選手の評判は芳しくなかった.そこで各水着メーカーは,水着素材や表面加工を工夫し,抵抗低減と着心地を両立させる新たな水着の開発に取り組んだ.
そのような開発競争の中,三重大学工学部とミズノとの共同研究によって新しいコンセプトの水着が生まれた.新水着の特徴は,リーオスペックと呼ばれる新素材にある.リーオスペックは,極細のポリエステル繊維を編んだ後に熱プレスで表面をつぶして平滑化し,さらにその生地上に撥水剤7mm間隔で縞模様にプリントしたものだ.このように撥水剤を縞模様にプリントする理由は,撥水処理がしてある部分とそうでない部分で,水着表面近傍の流れに速度差を生じさせるためである.このように速度差が生じると,速い水流が遅い水流を巻き込むように縦渦が形成され,この縦渦が水着表面における境界層の剥離を抑制し,結果的に抵抗が減るわけである.清水ら[5]による実験では,リーオスペック水着(図1参照)は,図2に示すように従来の製品と比較して最高で約8%の抵抗が低減できた.
図 1 リーオスペック水着(ミズノ社提供)
図 2 水着着用による抵抗の増加率(清水1997)
さらにその後,リーオスペックをベースに胸部付近に126個のシリコーン製の突起を取り付けた水着が製品化された[5].この突起は,ボルテックスコントローラと呼ばれ,胸部周りに配置することにより,胸下流の剥離領域を減少させ,さらに流体抵抗の削減が可能となった[6].このように水着はどんどんハイテク化し,もはやただ体を覆う布ではなくなり,1/100秒を競うための戦略的アイテムと化していったのである.
そして開発はさらに進む.2000年のシドニーオリンピックでは,これまでの水着の概念を大きく変え,ほぼ全身を覆うフルボディースーツが水泳ファンの目を釘付けにした.この新水着の特徴として,以下の2点が上げられる.第1は,水着の布地として,表面に鮫の皮膚のようにV字型の微細な溝を体長方向に施した新素材を用い,さらに鱗のような撥水処理加工をしたこと(図4参照).第2に新素材の裁断や縫製を工夫して,スイマーの動きを妨げることなく,体全体を覆うデザインを可能にしたことである(図5参照).新素材の開発には,ミズノと東レが当たった.鮫肌の有効性を裏付ける科学的根拠は,既にNASAのLangley
research centerによって,Riblets効果として公表され,航空機やAmerica's Cupのヨットなどにも応用されている.鮫肌を模倣した水着のアイデアは既にリーオスペックの開発時にもあったのだが,原理が分かっていても,それを製品にまで仕上げるのには,多くの技術的革新が必要であった.結果的に新素材の完成までに,4年以上の歳月と多額の経費が費やされた.
一方,デザインに関しては,主にイギリスのSPEEDOが担当した.
図 4 サメの肌をイメージした水着生地(Sanders
et al., 2001)
図 3三次元カッティングを採用した新水着
スイマーの筋収縮を妨げないで体全体を新素材でぴったり覆うためには,各スイマーの体格や筋肉の付き方など考慮した細部に渡る採寸が必要となる.そこで3Dボディ・スキャナーを用いて8方向から選手の体型を計測した.その詳細な形態に関するデータに泳運動中の動作解析データを加味し,これまでにない立体的なカッティングが完成した.そうして出来上がった水着は,各スイマーの動きを妨げることなくスイマーの体を緊縮させ,より流線型に近づける.それによって激しい水流による身体表面の振動が抑制され,さらに抵抗の低減が見込まれる.これら素材とデザインの効果が相まって,メーカーの発表によれば新水着は従来の製品より7.5%の抵抗低減が達成されたという.
しかしこれはあくまでもメーカー側の発表であり,この水着をヒトが着て本当に速く泳げるかどうかを検証する必要がある.そこでSandersら[8],Benjanuvatraら[9]
およびToussaintら [9][10]は,スイマーに新水着を着用させ,その効果の検証を行った.その結果,西オーストラリア大学のBenjanuvatraらがスイマーに新水着を着用させ,水面およぎ水深40cmの位置を牽引した実験では,新水着を着用した場合,平均で7.7%の抵抗削減効果が見られたと言う.しかしながら,この実験ではスイマーは姿勢を変えず,けのび姿勢(伏臥で両腕を挙上した姿勢)を保ったまま牽引した場合の静的な抵抗であり,実際に泳いだ時と異なる.そこで,オランダ自由大学のToussaintらが独自に開発した自己推進中の抵抗を測る装置(MAD
system)を用い,13名のスイマーを被験者として,従来の水着(●)と新水着(■)を着用して泳いだ際の流体抵抗を比較した結果を図5に示す.Toussaintらによれば,全被験者のデータを統計的に比較した場合,抵抗削減性能に関して従来の水着と新水着の間に有意な差は認められなかったとしている.しかし被験者の中には,図6に示すように,新水着による抵抗削減効果がある程度認められた例もあり,現段階では通常の泳動作をした場合,新水着()の抵抗削減効果が一概にあるともないとも言えない状況である.
図 5水着の違いによる水泳での流体抵抗比較1,全被験者対象(Toussaint,
2002)
図 6 水着の違いによる水中での流体抵抗比較2,被験者Annabelの場合(Toussaint,
2002)
3.水着開発の今後
水着開発に当たっては,国際水泳連盟(FINA)のルールにより,いくつかの制約があり,記録を伸ばすためには「なんでもあり」と言う状況ではない.たとえば水着自体が大きな浮力を持つことは認められないし,高分子ポリマーなどを塗布することも禁止されている.しかし近代競技スポーツは,ルールの制約を受けながらも,道具やウェアーの絶え間ない発達で大きく記録を伸ばしてきた.よって少しでも速く泳ぎたいと言う人類の願いがある限り,今後もハイテクを駆使した新水着が登場するだろう.そのために流体工学分野の貢献が大きく寄与するものと思われる.
4.文 献
[1]Toussaint, H.M., Groot,
G.de, Savelberg, H.H.C.M., Vervoon, K., Hollander, A.P.
and Ingen Schenau, G.J.van, Active drag related to velocity
in male and female swimmers, Journal of Biomechanics, 21,
(1988), 435-438.
[2]田古里哲夫, 荒川忠一, 増永公明, 岡本恒, 水泳における人体まわりの水流および水着の影響の実験的研究,
デサントスポーツ科学,5, (1984),173-184.
[3]田古里哲夫, 荒川忠一, 増永公明, 岡本恒, 水泳における人体姿勢と水着に関する流体力学的研究",
デサントスポーツ科学,6, (1985),185-230.
[4]富樫泰一, 野村武男, 藤本昌則, 競泳用水着に関する研究, デサントスポーツ科学, 10, (1989),
75-82.
[5]清水幸丸, 鈴木利明, 鈴木邦仁, 清川寛"競泳用水着の抵抗測定に関する研究(人体模型および水着の流体抵抗),
日本機械学会論文集(B編),63(616), (1997) , 3921-3927.
[6] 水すまし, NIKKEI MECHANICAL, 485, (1996), 24-27.
[7]清水幸丸,鈴木利明,松崎 健,森健次郎,競泳用水着に関する研究(境界層制御による水着抵抗の削減について),日本機械学会論文集(B編),64(625),(1998),2844-2851.
[8] Sanders, R., Rushall, B. Tussaint, H.M., Stager, J.
and Takagi, H., Bodysuit yourself: but first think about
it, Journal of Turbulence (Electronic Journal), (2001)
http://www.iop.org/EJ/S/3/1062/jxpsrScGsUaUbN4KXm9A0w/journal/-page=extra.20/JOT
[9]Benjanuvatra, N., Dawson, G., Blansky, B. and Elliot,
B., Comparison of buoyancy, active drag and passive drag
with full length and standard swimsuit, Proceedings of swimming
sessions, XIX International Symposium on Biomechanics in
Sports, University of San Francisco, (2001), 105-108.
[10]Toussaint H.M., The Fast-Skin"Body Suit: Hip, hype,
but does it reduce drag during front crawl swimming?, (2002),
http://www.education.ed.ac.uk/swim/papers-ISBS2002/ht3.html
[11] Toussaint, H.M., Truijents, M., Elzinga, M.J., Ven,
A.B.de, Best, H.de, Snabel, B., Groot, G.de, Effect of a
Fast-skinTM 'Body' Suit on drag during front crawl swimming,
Sports Biomechanics, 1(1), (2002), 1-10.