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【技術紹介】分子動力学解析による潤滑膜の被覆率測定方法の検証

株式会社富士通研究所
ストレージ研究所 磁気ディスク装置研究部
伊海佳昭

1. はじめに

 磁気ディスク装置 (HDD) の記録密度の向上のためには,記録再生ヘッドを搭載した浮上スライダの浮上量を低減し,ヘッドと記録膜との間隙を狭めることが重要となる.近年,スライダの浮上量は10nmを下回る域にまで達しており,今後さらに浮上量を下げるためには,記録媒体表面の分子スケールの構造を制御することが必要となる.特に,媒体表面を覆う液体潤滑膜はスライダの浮上安定性への影響が大きく,媒体を完全に被覆したまま可能な限り潤滑膜を薄く平滑にすることが要求されている.

  当社では,液体潤滑膜の状態を測定する手段としてCoaxial Impact Collision Ion Scattering Spectroscopy (CAICISS) を用いる方法を提案している[1].CAICISSは物質表面の原子種類の検出に用いられる手法であり,測定プローブとして低エネルギのイオンビームを用いるため,他の手法と比べて表面感度が高いという利点がある.提案の方法では,記録媒体の保護膜であるDiamond‐Like Carbon (DLC) と,潤滑剤であるPerfluoropolyether (PFPE) とに含まれるフッ素と炭素の比率 (F/C比) に基づき,潤滑膜の被覆率を測定している.すなわちDLC表面にPFPEが存在しない場合はフッ素が検出されないためF/C比=0 ,逆に表面がPFPEに完全に覆われている状態ではPFPEのみ測定されるためF/C比=2となることを利用している.しかし液状の潤滑膜の原子配置が不確定であるため,F/C比が1前後の中間的な状態では,測定された値と実際の被覆率との関連が不明確であった.

  本稿では,全原子分子動力学 (MD) 法を用いてHDDの潤滑膜を数値解析により再現し,CAICISSの測定結果と潤滑剤分子の被覆率との関係を調査した研究を紹介する.

2. 分子動力学解析による潤滑膜の作成

 全原子MD解析では分子を構成する全ての原子の位置・速度が算出可能なため,実験での測定が困難な分子状態を推測することができる.HDD潤滑膜の解析を行った例としては,田中ら[2]が媒体保護膜上の潤滑膜モデルを作成し,その被覆率や厚み方向の原子の存在強度を調査した例がある.筆者らは田中らの方法と同様に,保護膜表面から離れた位置から潤滑剤分子を1つずつ,一定の初期速度を与えて表面に接近させることで,自然な分子配置をもつ潤滑膜を作成した.潤滑剤分子として FOMBLINTM Z-TETRAOL を用い,分子の発生位置をランダムに変化させて4種類の潤滑膜を作成した.図1に,そのうちの2種類の潤滑膜のスナップショットを示す.図のように,潤滑膜は被覆率の高いものと低いもの2種類に大別される結果となった.この差は,ランダムに変化させた分子の発生位置によるものと考えられる.


Fig. 1. Snapshots of MD simulation results for 1.6 nm average thickness films.

3. 被覆率とF/C比との比較

 次に, MD解析結果とCAICISSの測定結果とを関連づけるため,解析で求めた潤滑膜からF/C比を計算した.CAICISSでは,イオンビームの入射角に対しほぼ180°に後方散乱されたイオンのエネルギ変化から表面の原子を同定しているが,試料にイオンビームを照射した際,図2のように測定対象原子の後ろにイオンの届かない領域 (Shadow cone) が形成される.今回は,他の原子のShadow coneの外側にある“イオンが衝突する可能性のある原子”の存在比率を計算することで,MD解析結果からF/C比を求めた.各原子の Shadow cone形状はOenの提唱した式[3]により求めた.入射イオンの種類はHe+,入射エネルギは2.0keV,入射角は15°として計算している.フッ素と炭素のShadow cone形状を図3に示す.

 また潤滑膜の被覆面積から,潤滑剤の分子数に応じた被覆率も計算した.


Fig. 2. Schematic of shadow cones.


Fig. 3. Shadow cone shape of C (solid line) and F (dashed line) on condition that the incident ion is He and acceleration energy is 2.0 keV.

計算されたF/C比と被覆率との比較を図4,5に示す.図4はF/C比と被覆率の膜厚依存性を比較した図であり,図5はF/C比と被覆率の相関関係を示した図である.これらの結果から,今回の測定条件では潤滑膜の厚さや存在形態に関わらず,ほぼ
被覆率 = (F/C比)/2
の関係となることがわかった.これにより,分子1層以下の極薄膜潤滑膜であっても,F/C比の測定によって高い精度で被覆率を測定できることが示された.


Fig. 4. Comparison between calculated F/C ratios and coverage.


Fig. 5. Correlation between calculated F/C ratios and coverage of four results.

筆者らはさらに,MD解析結果から算出したF/C比と,CAICISSで測定した実際の潤滑膜のF/C比とを比較した.結果を図6に示す.被覆率の高い潤滑膜のグループが測定値と良く一致しており,実測された媒体と近い状態であることがわかる.MD解析には一般に解析結果の検証が困難であるという問題があるが,今回のPFPE潤滑膜においては,F/C比を用いて現実の潤滑膜との突き合わせが可能なことがわかる.


Fig. 6. Comparison between measured and calculated F/C ratios.

4. おわりに

 分子動力学解析を用いてHDD記録媒体上の潤滑膜モデルを作成し,イオンビームによる被覆率測定法を検証した研究を紹介した.調査の結果,CAICISSでF/C比を測定することにより被覆率を高精度に測定できること,MD解析結果からF/C比を計算することにより解析結果の検証が可能であることを示した.

  今後は,今回得られた潤滑膜の解析モデルを用い,HDDにおける分子潤滑膜の摩擦特性や吸着特性を明らかにしていく予定である.

参考文献

[1] Y. Goto, N. Nakamura, A. Mizutani, H. Chiba, and K. Watanabe, FUJITSU Sci. Tech. J., Vol. 42, No. 1, pp. 113-121, 2006
[2] K. Tanaka, K. Iwamoto, and T. Kato, Microsys. Tech., Vol. 13, No. 8-10, pp. 1169-1174, 2007
[3] O. S. Oen, J. Surf. Sci., vol. 131, pp. L407-411, 1983
[4] 伊海, 中村, 千葉, 今村, 日本機械学会 IIP2008情報・知能・精密機器部門講演会講演論文集, No. 08-03, pp.128-129, 2008
[5] Y. Ikai, N. Nakamura, H. Chiba and T. Imamura, IEEE Trans. Mag., Vol 44, No. 11, pp. 3645-3648, 2008
Last Modified at 2009/2/3