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私が見た科学

    東北大学 工学部
機械知能系 原子核工学科
 カトゥール ディアントノ

    我々はいわゆる科学の時代に暮らしている。科学は我々の注目を集める唯一の思考体系ではない。様々な宗教や、まったく別の哲学があって、より豊かで包括的な世界観を提供できると主張している。科学的な世界観の根拠は、科学が真理を扱うという主張に依存している。科学理論がいかに”上品”であろうと、またそれを生み出した人がどれほど傑出していようと、それが実験や観察と一致しなければ捨てられなければならない。
    この科学は現実世界ではもちろん理想化である。実際には、科学的な真理の性質はずっとわかりにくく、議論の余地がある場合も多い。科学的な方法の核心には、複数の理論の構築がある。科学理論は基本的には現実世界のモデルであり、科学の用語は現実よりもむしろモデルのほうにかかわっているものである。
    一般的に、科学が常識から遠くなればなるほど、どれが単あるモデルをなすもので、どれが現実の世界の忠実な記述になっていると考えられるかというのは決めにくくなる。素粒子物理の際だった謎に、原子より小さい様々な粒子がどうして今もっているような質量をもつのかということがある。たとえば陽子は電子の 1836倍 の重さがある。なぜ 1836倍 なのだろう。誰にもわからない。
    科学というのはすぺて、物理的な世界は秩序があるという前提の上にたてられている。この秩序が一番強力に現れたのが物理法則に見られる。それらの法則がどこに由来するのか、あるいはそれらがどうして、見たところ普遍的に、また間違えなく働くのか、誰も知らない。しかしそれらが自分のまわりのいたるところで動いているのが見られる。夜と昼のリズム、惑星運動のパターン、時計の規則正しい刻みというように。
    我々が知りたいのは、現実の世界が数学的に、物理的にどのように表わされるのかということである。もちろんすべて、数学の式で表現されることができない日現実の世界はあまりにも複雑のためである。しかし、なぜ現実の世界が調和、また欠陥もなく創造されたのか支配されたのか、多くの科学者は理解しようとはしない。深く考えれば考えるほど、すべてのものは”偶然に”はじまるとはとても考えられない。偶然な事象は、実は必ず、細かいところを知らないからだということである。
    万有を支配し、誰からも支配されない創造者が存在するということは、科学的には理解しにくいであろう。それは科学の限界がもしれなへ難的には、偉力な支配者、創造者が存在することはたしかである。
    ”仮令地上の全ての木がペンであって、また海が墨で、その外に七つ海をそれに差し添えても、自然の創造者の御言葉は書き尽くすことはできない。本当にかれは、偉力ならびなく英明であられる。”(聖クルアーン 31:27)。
    ”かれは一層一層に、7天を創られる御方。慈悲あまねく御方の創造には、少しの不調和もないことを見るであろう。それで改めて観察しなさい。あなたは何か裂け目を見るのか。それで今一度、目を上げて見るがいい。あなたの視線は、(何の欠陥も捜し出せず)ただぼんやりしてもとに戻るだけである。”(聖クルアーン 67:3、4)。


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