No.209 メタバースの時代と機械系エンジニア
2022年度企画理事 光行 恵司[(株)デンソー]
JSME談話室「き・か・い」は、気軽な話題を集めて提供するコラム欄です。本会理事が交代で一年間を通して執筆します。
2022年度企画理事 光行 恵司[(株)デンソー]
No.209 メタバースの時代と機械系エンジニア
コロナ禍となり、早2年半が過ぎました。新型コロナウィルス感染防止をきっかけに、急速にオンラインミーティングを活用したテレワークが普及、定着しています。
日本機械学会も20年度の年次大会は完全オンライン開催とし、その後もオンラインやハイブリッドで多くのセミナーや講演会が開催され、本学会の活動も様変わりしています。私が参加した昨年度の生産システム部門と情報・知能・精密機器部門との合同部門講演会でも、バーチャル空間でアバターを操作しながら,セッション後の講演者との質疑や、休憩中の他の参加者とのコミュニケーションを試みる取り組みが行われました。
このようにWeb上のソフトウェアとネットワークに支えられた世界に、シフトを強いられてきたわけですが、いつの間にか、それが日常となってきています。もちろん対面の価値の重要性は変わりませんが、ネットを介した遠方の方々とのご縁の広がりや、移動時間の削減による自分時間の創出など、新たな可能性も実感されているのではないでしょうか。皆様は、どんな感覚をお持ちでしょう?
さらに、21年10月28日にフェイスブック社が、社名を“メタ・プラットフォームズ”に変更して以降、その名前の由来である“メタバース”という言葉、概念が急速に世の中に広がってきています。仮想世界での生活、ビジネス、社会といったことに関して、世間の関心が大きく高まってきているように思います。
“メタバース”という言葉が生まれたのは1992年。アメリカのSF作家・ニール・スティーヴンスンが1992年に発表したSF小説「スノウ・クラッシュ」で初めて“メタバース”が登場しました。日本では、2001年に文庫版が出されて以降、増刷されていませんでしたが、“メタバース”の盛り上がりの中、21年ぶりに2022年1月に復刊されました。私も最近、この小説を読んでみたのですが、インターネットも一般には普及していなかった30年前に書かれたこの小説には、ユートピアとしての仮想世界とディストピアとしての実世界を行き来して生きる人々の日常、仮想世界と実世界の双方の社会をむしばむコンピュータシステムのハッキングと脳のハッキングの脅威、そして、実世界の国家の崩壊と新たな国家的な分散社会の成立などが細部まで描きこまれ、その驚くべき先見性と解像度に感動すると共に、今、まさに時代が、この小説に追いついてきていることを実感させられる小説でした。
「スノウ・クラッシュ」に描かれているメタバースの乗り物は、物理学を気にすることがなく、加速や空気抵抗といった問題は一切無視された形状、速度で疾走し、タイヤがきしむことも滑ることもありません。アバター同士はすり抜けて歩行できますが、建造物や物体は、すり抜けることはできず、乗り物も、障害物に当たれば一時停止するようコーディングされている世界です。すなわち、自然界の法則を工学的に機能化することにより、人々の暮らしや社会の形成に貢献してきた私たち機械系エンジニアには、このような“メタバース内”の世界の構築においては出番がありません。
メタバースの世界は、今後も、ソフトウェア、通信、CG、そして、制度、倫理観など含めた広義のソフト的な領域の進化、整備と共に、私たちの生活基盤の一部となっていくことと思います。こうした新たな世界の構築、運営を志し、多くの優秀な若者は、この新たな世界を支えるソフトウェアエンジニア、システムエンジニア、クリエーター、投資家といった領域へとキャリアを進めています。また、世の中も、IT技術者の不足を謳い、リスキリングに関する話題にも事欠きません。
このような風潮の中、日本機械学会、そして機械系エンジニアに、期待はあるのでしょうか?
私は、メタバースの時代も、機械系エンジニアの着実な育成、確保を続けていくことが、日本にとっても、社会にとっても、とても大切なことだと考えます。
先に“メタバース内”では、と書きましたが、“メタバース外”の世界では、自然法則の下に諸処の機能は成り立っており、メタバースを演出するコンピュータ、ネットワークや、ヘッドマウントディスプレイ、ハプティックデバイスなどのユーザー・インタフェースといったハードウェアの進歩抜きには、メタバースのさらなる進展はあり得ません。「スノウ・クラッシュ」の中でも、メタバースの世界の乗り物の一番の課題は、ユーザーが乗り物を操作するためのユーザー・インタフェースの操作性と反応速度だと書かれています。これらハードウェアを支える設計・制御技術、そしてそれらを量産していく生産技術、設備技術は、明らかに機械系エンジニア抜きには考えられない領域であり、これからの日本の産業、そして機械系エンジニアが活躍していくべき領域だと思います。
日本機械学会は、メタバースの時代に、その表面的な目に見える華やかな部分だけではなく、その深層を支える技術群を世の中の多くの人々に理解できる形で示し、未来ある若者たちの将来に対して、多くの選択肢や可能性を示していく必要があるのではないでしょうか。アカデミア、産業界共に、非常に幅広い分野の人財が集う日本機械学会が、これからの機械系エンジニアの意味、意義を語っていくことは、極めて重要であり、私も企画理事として、その一助となることができれば幸いです。