No.199 「故事散策 糟粕を嘗める」
2021年度財務理事 武正文夫[(株)IHI検査計測]
JSME談話室「き・か・い」は、気軽な話題を集めて提供するコラム欄です。本会理事が交代で一年間を通して執筆します。
2021年度財務理事 武正文夫[(株)IHI検査計測]
「故事散策 糟粕を嘗める」
故事の話をすると決めて、先ず「機械」にまつわる故事を調べた。出てきたのは荘子の外編天地第12「機械ある者は、必ず機事あり。機事ある者は、必ず機心あり」である。この話には、はねつるべというテコの原理を使った揚水機が出てくる。荘子は紀元前369年頃-紀元前286年頃の思想家なので、2千年以上前に、既にこの機械が使われていたということに驚く。これで書こうと思い、先行文献調査をすると、本コラム2002年7月のNo.3『キカイ』で西尾茂文先生が既に取り上げられていた。本コラムは2002年5月に始まり次月で200号となる。既にこの故事の記事があるのは、さもありなん。コラムでは新規性や独創性は問われないだろうが、深掘りせず他を探す。
学術論文では独創性は必要不可欠な要素である。日本機械学会学術誌も規定で、「新規性、独創性、萌芽的発展性、有用性、信頼性を有する原著論文」を掲載するとしている。そこで、「独創性」に関連する故事・名言を探すこととした。
大阪帝国大学初代総長の長岡半太郎先生の「勿嘗糟粕(糟粕を嘗める事勿れ)」は有名である。「糟粕」は、酒の絞りかす、転じて滋味を絞った残りかす、本質の抜けた外形を意味する。この教えは「先人の仕事を、その本質や神髄を理解しようとせず、表層や形のみ真似るようなことはしてはならない」ということであり、そこから、創造的・独創的であれという意味が出たのだと、自分なりに解釈している。
「糟粕」を少し掘ると面白い。この語は荘子の外編天道第13の「古人糟粕」に由来する。話は、ご存じの方も多いかと思うが、斉の桓公と車大工の輪扁がやり取りをする寓話で、意訳を以下に示す。
桓公が書を読んでいたら、輪扁が「何を読んでいるか」と尋ねる。桓公は「聖人の言だ」と応え、輪扁は「その聖人は存命か」と問う。桓公の「既に亡くなっている」との答えに、輪扁は「それではあなたが読んでいるものは古人の搾りかすだ」と言う。桓公は怒って説明を求める。輪扁曰く、「車輪の軸穴を削り、車軸に対して緩くもなくきつくもなく仕上げる技は、会得するに長年かかり、言葉で説明することはできない。子にも伝えられないので、70歳になっても自分で車輪を削っている。このような言葉で伝えられないものは、古人と共に無くなる。つまり、桓公が読まれている書は、聖人の考えの残りかすにすぎない」と。
本題から逸れるが、輪扁の言う「言葉にできない技」は面白い。この時代に既に、言語化できない暗黙知やそれに伴う技術伝承の困難さが、ほぼ現代と同じ概念で認識されていた。2千年以上の年月も、いまだにこの問題を完全には解決できていない。
荘子の「古人糟粕」の表現は、古くから使われている。例えば、空海僧都伝には、空海が大学を辞めて山林で修業を始めた際の心境を表す部分に「我の習うところは古人の糟粕なり」とある。また、松尾芭蕉の弟子である服部土芳の「三冊子」では、「糟粕」と同じ意味で「古人の涎をなむる事なかれ」とある。他にも、坪内逍遥「小説神髄」、正岡子規「俳諧大要」、島村藤村「夜明け前」、芥川龍之介「文芸的な、余りに文芸的な」など、例を上げたらきりがない。物事の本質の探究や新規性・独創性の追求の重要性が、認識され説かれ続けていると言う事を、あらためて実感する。
最後に、故事から離れるが、独創性の阻害要因に触れる。宮内敏雄先生が本コラム2005年1月のNo.28『創造と独創』で、東京工業大学名誉教授、元東京電機大学学長の当麻喜弘先生の「真の独創を阻害する因子」12項目を紹介されている。企業で研究開発に携わってきた筆者には、このすべてに心当たりがある。その中の特に「(3)得られるメリットを厳しく問いただす、(4)詳細なタイムスケジュールを提出させる、(5)予算の正確な根拠を説明させる、(6)進捗状況を頻繁に問いただす」という4つの場面は、筆者の部門の日常的な光景である。もちろん企業では、すべての研究テーマで独創性が必要であるわけではない。また、リターンを考えない研究投資は企業としては有り得ない。しかし、独創的な考えを持つ若い技術者を育てるということは、企業の研究部門でも重要な役割である。その芽を摘んでいなかっただろうかと自問し、大いに反省をしている。是非、特に企業の方々に宮内先生のコラムをお読みいただきたい。得るものが大きいと思う。
さて、古をあっちこっち自由に散策して、取り留めも無く「糟粕を嘗め」た。まあ、酒粕にもまだまだ滋養成分が十分残っている。炙っても良し、甘酒、粕汁などなど、いろいろな楽しみ方ができて、体にも良いそうである。楽しかったのは筆者だけだったかもしれないが。この機会を頂いて感謝します。ありがとうございました。