No.157 グローバル化について思うこと
2017年度編修理事 梶原 逸朗[北海道大学 教授]
2017年度(第95期)編修理事
梶原 逸朗(北海道大学 教授)
最近,大学でも,企業でも,そして学会でもグローバル化が叫ばれている.大学においては,このグローバル化というのが世界における大学ランキングの一つの指標になっているので,無視できない重要課題である.島国である日本は,英語で論文を公表するという点から,また国際的な交流を展開する点からも不利であると感じるが,世界の潮流を見ると,このようなことは言っていられない.大学で働いている経験から,グローバル化について思うところを述べたい.
大学の国際化から,外国籍の教員および留学生を多く受け入れることが重要視されている.私が勤める北海道大学にて,国際関係の担当部署から,年に数回,留学生の受入可否について,回答の依頼がくる.事務に確認すると「本学との協定校からの志願者なので,できるだけ受け入れてください.」と言う.さらに聞くと,「いままで否にした先生はいません.」と答える.「それじゃ,回答依頼なんてしないで,そっちで決めてよ.」と思う.「これもグローバル化の一環なのね.」と自分の心の中で理解する.ただ,学業についていけず,途中で脱落する留学生もいるので(日本人学生も例外ではない),受入可否を検討する際,さまざまな観点からしっかり評価した方がよいと感じることもある.もちろん,入学後の学生に対するケアも大切である.一方,教員の国際化に関して,外国籍の教員は少しずつ増えているようだが,劇的に変化させるのは難しそうだ.成績の悪い日本人教員を辞めさせて,優秀な外国人教員を採用しようなんて言おうものなら,真っ先に自分に白羽の矢が立ちそうで,うかつに口にできない.(そもそも,教員の流動化に関し,個人と組織の意識に差があり,積極的に進められない風潮が我が国にあるように感じる.結果,何も変えられない.)しかし,将来的には,教員の国際化は避けては通れないだろう.
本学機械系では,数年前から,大学院の講義に関し,日本語で実施する講義を英語でも実施する英語コースのカリキュラムを提供している.つまり,担当教員は同一の講義について日本語と英語でそれぞれ行わなければならず,(時間で見た)負担は倍になる.日本語の講義履修者を英語の講義に出席させることもでき,そうすれば負担は軽減されるため,私はこのやり方で行っている.これがはじまった当初,私は大変な時代になったなと感じた.ただ,留学生を教育するという責任を考えたら,当然のことなのだろう.はじめの頃,私は,ひどい英語で講義しているなと自分で思ったものだが,今は(相変わらず苦手であるが),「次は,こう説明したら,わかりやすいかな.」と改良することが少し楽しくなってきた.学期の終わりに,留学生からアンケート(評価)を受けるのだが,意外にも「英語が悪い.」という指摘を受けたことはいままで一度もない.いや,英語はひどかったはずなのだが,学生たちにとって,このことはたいした問題ではないらしい.講義の内容を的確に伝えることが重要なようだ.「丁寧な説明で,とてもわかりやすかった.」という記述があったときには,本当にうれしかった.日本語で行う学部の講義でも,最終講義の際,同様のアンケートを行うのだが,昨年の夏学期(4学期制,6月-7月)に私が行った講義のアンケートにおいて,評価は概ね悪くないのだが,自由記述欄に,「暑いから講義室にエアコンをつけてほしい.」という記述が1名だけでなく数名からあった(本学は,土地柄,エアコンのない講義室がほとんどである).「そっちかよ!」と思ったが,このようなコメントをする学生を,私は嫌いではない.話が脱線したが,言いたいことは,留学生の方が大人かな,と感じることが多いことである.
どの大学も,いい留学生を受け入れたいのは事実である.そのためには,受け入れの際の評価を適切に行うことは大切だが,同時に,大学自体の魅力を高め,いい志願者が多数応募してくるように努力することが必要不可欠である.そして,ひと度,留学生を受け入れたら,いい教育(研究指導)を提供することが必須である.このことは,いい講義(教育)を行うこと,また,いい研究を行うこと(そのように指導すること)を意味しているが,一方で,教員に対しこれらの質を保障するための方策を考え,実施ことも重要だと思う.言うのは易しいが,実行するのは大変そうである.加えて,世界大学ランキングに振り回されたくない,というのも本音である.