10年ほど前、イスラエルの大学に文部省の在外研究員として滞在したことがある。文化の違いにはしばしば驚かされたが、特に、学生が先生を名前で呼び捨てにしていたのが印象的であった。私も外国の先生方とは名前で呼び合うことがあるとはいえ、ここでは学生が、である。聞けば4年生まではprofessor付けで呼ぶが、大学院に入ると呼び捨てだという。大学入学前に3年間の兵役を課されているので、大学院1年で25歳を超えているとはいえ、大学院入学時には、教員に同格の研究者としての位置づけをもらえるようなレベルまで自分を磨いていることが前提となっている訳である。一方、日本でそれを期待することは現状ではまず無理であり、当然のように院生たちは私を“先生”と呼ぶ。
さて、逆の視点ではどうであろう。教員の側としては卒業生をいつまでも学生時代の延長で“君”付けで呼ぶ場合が多いのでは無かろうか。徒弟制に近い教育環境の大学では不自然ではないかもしれないが、私が剋目させられたこんな事例もある。就職して2ヶ月ほどの時期にお会いした、私の博士論文の審査員であった教授に“小野寺先生”と呼びかけられたのである。その先生は後にある私大の学長をされたほどの方であるが、2ヶ月前まで学生であった私を職位とはいえ“先生”と呼称したのである。これによって尊敬を新たにさせられたが、私もそれに倣い、卒業後1年ほどしてひとり立ちした卒業生は一個の社会人として扱い“さん”付けで呼ぶようにしている。
そんな中で、私の想いとは裏腹なことが起こった。小さいながら会社を経営する、かれこれ四半世紀の付き合いになる友人がいるのだが、その彼が最近、私を“先生”と呼び出したのである。もともと外部の方々には“さん付けでいいです”といっている私としてはかなり窮屈である。それとなく情報収集したところ、大学の先生の中には“さん”付けで呼ぶとへそを曲げる人もいて商売上問題なので、私のことも統一的に“先生”と呼ぶことにしたらしい。
確かに、専門分野に関しては専門家であるからその分野の範囲内では先生と呼ばれてもよいかもしれないが、それ以外では教員であっても“公衆”に過ぎない。以前、私の属している研究室がテレビ局に貸し出した可視化写真について、東京にある旧帝大の高名な先生が番組中で完全に誤った解説をし、ある分野に優れた業績があっても全てにおいて専門家ではないことを痛感し、研究室内でも高慢を戒めあったことがある。私の場合、先生と呼ぶのは薫陶を受けた方、あるいは現役の教員の職位として、と決めているのだが、相手によっては、それで気分を害することもあるようである。“先生”と呼ばれ奉られるのに慣れてしまうことは、社会との間に段差を生じさせ意思疎通の阻害要因となる危険性がある。ここでは教員のことだけ取り上げたが、この問題は全ての技術者にも共通する。技術と社会のinterfaceの役割を担っているのが当部門である。別言すれば専門家と公衆のinterfaceでもある。そしてこの二つは同一人物に対して唯一絶対のものではなく入れ替わることもあることを認識し、謙虚に物事に対応すべきではなかろうか。今回のニュースレターでご報告する部門連携事業もわれわれの部門活動の普及啓発とともに他の立場の視点への理解を進めることを目的とするものである。この事業に関してはぜひ次年度以降の発展を期待し、ご支援を戴きたい。
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