小特集「社会と安全」
「大学における安全教育の必要性」

 



吉田敬介(九州大学)

 近年,国内外の至る所で大事故が目立っています.ところが,データ上は労働災害件数や死傷者数はこのところ横ばいないし減少傾向にあります.一体,なぜ事故が増えているような感覚に陥るのでしょうか? 

 実は「目立つ」事故,すなわち大規模システムでの事故が増えているのです.よく言われるように,航空機事故による年間の死傷者数は交通事故のそれとは比較にならないほど少ないのに,前者は大騒ぎされます.しかし我々技術者は,それは決しておかしなことと思ってはなりません.大規模システムの事故は科学技術の進歩によって機器の信頼性が高くなっている中で起きています.しかも,既に一般の人々はそのシステムがどのような技術のもとで作られているかを理解することが出来なくなっています.食卓がどうやって空中に水平でいられるか(=足で支えられている)の理屈を知らない大人はいませんし,それが折れたらどうなるかはすぐにわかります.またかなりの素人でも足が折れた場合,原因を知ることは容易です.ですから,万一その足が折れても,それほど驚かないでしょうし,「ああ,こんなことをしたから折れたんだ」と思うでしょう.否,それがたとえ不良品であっても,ある程度の予測やリスク管理(「もう○年も使ったし,そろそろ…」「あの店で易く買ったのだからやっぱりこんなこともあるだろう」など)が出来ているでしょう.

 ところが,そのような一般の人にとって,現代の大規模システムは理解し辛いシステムであり,結局のところ「それはそういうものだ」「頭がいい人が考えて出来ているのだ」と信じるしかありません.そのシステムが事故を起こし続けるとどうなるでしょうか? 一般社会の不安を駆り立て,ひいては技術あるいは技術者に対する不信感を掻き立てることになることは間違いありません.したがって,大規模システムの事故は極力減らす努力をする必要があり,それにはそのシステムの設計,製造,管理に関係する多くの優秀な技術者の努力に成否がかかっているのです.

 しかし,そうは言っても技術者も人間です.人間はミスを起こすものです.ただし,そのミスの発生頻度は安全に対する意識の高低に大きく左右されるのも事実です.最近の大規模事故が決して予期し得ないものではなく,明らかに技術者や作業員の過失からスタートしている現状を考えると,改めて安全に対する意識を高める教育,すなわち安全教育の必要性が痛感されます.特に,高度技術者として採用される大卒者の学生時代における安全教育は大変重要であると考えます.

 もとより,大学では安全教育を怠ってきたわけではありません.筆者が勤務する九州大学工学部機械航空工学科においても「安全対策マニュアル」と呼ばれる冊子を作成して配布し,学生の安全に配慮してきました.しかし,それはあくまで学内における授業,実験実習,卒業研究など,「現場」で安全に過ごすためのものであり,大学卒業後の安全意識を高める目的で行われるものではありませんでした.一方,社会全体の危機意識の低下あるいは気の緩みは大学だけを例外にしてくれません.通路や階段に座り込んだり,建物の出入口前に平気で駐輪・駐車して平気な,そしてそれを注意しようともしない風潮が昨今生まれつつありますが,大学においても同じような光景を見かけることが多くなりました.ドアを開けた者がけがをして初めて,事の重大さに気が付く学生はもはや少数ではなくなりつつあるようです.問題は,止めてはいけないことを知らないわけではなく,止めるとどうなるかを想像することができないことです.それを「大学の自由な雰囲気」と容認する教職員がわずかではあるが存在することも,そのような学生の「育成」に一役買っています.また,大学では「各自の良識に任せる」という聞き心地のよい言葉が闊歩していることも,問題を矮小化しています.このような,周囲への配慮能力に欠く学生は安全意識や危機予測能力も当然低く,このような状態のままで一度大学を卒業させれば,社会人になったからと言って急に感覚や能力が養われるはずはないので,結局のところ企業あるいは社会での「リハビリ」教育に時間がかかるでしょう.しかし,これまでならともかく,現在の企業ではもはや新卒者の教育に従来程時間がかけられなくなっており,のんびりと「リハビリ」をやっている余裕などなくなっています.

 筆者は,上記のような状況を憂い,工学部学生に対して安全に対する高度な管理能力を有するための安全教育を実施すべきと考えています.すなわち,座学ベースおよび実体験ベースの両面からのアプローチによる安全教育を行おうとしています.両者ともに最終的には一つの体系化されたプログラムを作成することが目標ですが,前者は筆者が現在担当している講義科目を利用し,「工学倫理」の教材などを参考に,安全技術における個人の安全意識の重要さを説き,後者では(株)エムネットの協力により,五官を使った効果的な安全教育,すなわち「ヒヤリハット」の体験による危険認識の重要さを説こうとしています[1].まだ始めたばかりで,手探りの状態ですが,今後関係各位の協力を得ながら効果的な安全教育システムの構築が出来ればと願っています.

  1. 企業の社員研修プログラムを活用した大学の安全体験教育
    吉田敬介,黒河周平,松枝嘉明,坂 清次,日本機械学会2004年年次大会講演論文集(5),No.04-1, pp.427-428, 2004.

 

     

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日本機械学会
技術と社会部門ニュースレターNo.15
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