巻頭言

倫理は技術者にとって周辺領域か

札野 順
(金沢工業大学・教授)

 筆者が技術者の倫理という問題に取り組み始めたのは今から10年ほど前のことである.そのころ,本務校の仕事で,米国の主要な大学の工学部を訪問し,カリキュラムなどを調査した.その結果,当時,米国の工学教育にあって,日本にない要素がいくつか見えてきた.そのなかで特に二つの要素が際立っていた.工学設計(engineering design)と技術倫理(engineering ethics)である.

 科学史を専門とする著者にとって,科学技術の成果が社会や環境に与える影響を考慮し,科学技術以外の価値について熟考した上で,適切な意思決定をする能力の育成を目的とする,技術倫理教育は飛び込みやすい領域であった.科学史家として技術者教育に貢献できる道を見出したと思った.

 しかし,周囲の反応は好意的ではなかった.多くの人々は,「倫理」という言葉から,堅苦しさと固定した規範の押し付けを感じ,独創性を旨とする科学技術に制限を与えるものという印象を持っていた.ほとんどの人々にとって,技術と倫理は直接結びつかない水と油のようなものであった.なぜ,工学部で倫理教育が必要なのかと問われた. しかし,1995年を境として状況は変わった.オウム真理教徒によるサリン散布事件が起こった.「もんじゅ」の事故およびビデオ隠しがあった.その後,最近の東電−日立問題に至るまで,相次いで科学技術に関連する事故や不祥事が起こった.価値のはざまで苦悩し,苦渋の選択を迫られた技術者たちの顔が見えてきた.

 その後,新聞や雑誌で科学技術者の倫理と社会的責任が議論されるようになった.海外,特に,米国で使われている技術倫理の教科書が相次いで翻訳出版された.日本人の著作も現れ始めた.日本機械学会誌でも倫理の特集が組まれた.科学技術者の倫理に関するちょっとしたブームが巻き起こった.

 技術者教育プログラムの国際相互承認の動きと,WTOによるサービスの質の保証に呼応して,技術者資格の問題が検討され,技術士法が改正された.公益確保の責務を含めて,技術士の義務が再確認された.技術士としての適性試験の中に倫理の問題が出題されるようになった.

 1999年に設立された日本技術者教育認定機構(JABEE)は,工学部で学ぶものが,専門を問わず,達成を目指さねばならない学習・教育目標のひとつとして,「技術が社会や自然に及ぼす影響や効果,および技術者が社会に対して負っている責任に関する理解(技術者倫理)」を明示している.JABEEの認定を受けようとする大学はなんらかの形で技術者倫理教育を実施しなくてはならなくなった.

 では,技術者倫理とその教育は,我が国で市民権を得たのであろうか. 1996年に情報処理学会が,今日的な倫理綱領を生態したのを皮切りに,その後,多くの技術系学協会がその動きに続いた.日本機械学会も1999年に倫理規定を制定した.しかし,原子力学会などを除き,多くの学会でそのフォローアップがなされていない.機械学会の年次大会などで倫理に関するセッションやワークショップを開催しても,毎回参加者の顔ぶれはあまり変わらない.若手の参加は少ない.

 教育の場においては,「JABEE対応」という言葉がささやかれるようになった.認定を受けようとする大学(技術者教育プログラム)の教育目的として技術者倫理が不可欠だからというのではなく,JABEEが要求しているからしかたなく,技術者倫理をカリキュラムに含めるということを意味する.既存の科目名を変更したり,非常勤講師を雇ったり,オムニバス形式の科目を用意したりと,「対応」に努めている大学は多い.

 著者は,米国の技術者教育認定機関であるABETの"engineering"の定義を基に,「技術者倫理」を「技術者が,専門職業集団の一員として,研学・経験・実務を通して獲得した数学的・科学的知識を駆使して,人類の利益のために,自然の力を経済的に活用する上で必要な行為の善悪,正不正や,その他の関連する価値に関する判断を下すための規範体系の総体,ならびに,その体系の継続的・批判的検討.さらに,この規範体系に基づいて判断を下すことのできる能力」と定義したい.換言すれば,技術者の倫理的能力とは,「技術の実践において,自らの行動を設計する」能力である.

 もし,この定義が認められるのであれば,「技術者倫理」は,JABEEに「対応」するためにのみ必要な周辺領域ではなく,技術者のアイデンティティに直接関わる中核的能力である.科学技術の成果が,人間社会に,恩恵だけでなく,時として広範かつ深刻な負の影響を与える可能性がある現代の高度技術社会において,科学技術の実践者として意思決定を行う技術者が,「人類の利益」のために,創造性を発揮し,倫理的な行動を「設計」する能力を身につける必要がある.日本の高等教育機関において,「JABEE対応」ではない技術者倫理教育が,専門の教員も含めて,教育プログラム全体で実施される日が来ることをこころから願っている.

 著者は,技術者ではないにもかかわらず,技術倫理関連の仕事で2001年度「技術と社会」部門功績賞をいただけたことを大変光栄に思っている.関係の方々に深く感謝する.が,もし許されるなら,この機会に,機械学会全体で,倫理的に優れた行為を「設計」し,実践した技術者を称える報奨システムを構築することを提唱したい.倫理が技術者にとって周辺領域でないことを,学会として示すために.


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技術と社会部門ニュースレターNo.13
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