小野寺 英輝
「歴史」とは単なる事実の蓄積ではない
私が工学の歴史を学ぼうと思うようになったきっかけは、青山学院大学の副学長をされた三輪修三先生の講演の中で語られたこの言葉にあった。このときのお話の枕は、歴史とは書き手の主観によってさまざまに変化する、唯一の事実は存在するにもかかわらず、書き手がどのように事実を取捨選択するか、あるいはどのようにその選択したものを解釈するかによって、同じ事実から異なった歴史さえ生まれてしまうというものであった。これは併せてなされたいくつかの例示とともに大変心に残るものであった。
その後、工業の歴史を調べていくなかで、もうひとつの疑問に突き当たることになった。それは、歴史の目的は何かということである。歴史は教訓的要素を持つ。ハーバード大の哲学者G.サンタナヤが述べているように「過去を記憶しなかったり、過去に考慮を払わなかった者は、その罰として過去を繰り返す」のである。歴史を見ればさまざまの局面でこの警句を思い知らされる。
では、考慮を払わないとはどういうことであろうか?私の解釈では、現在、そして未来を過去の延長線上に捉えず、未来を単に現在から継続するまったく未知のものと捕らえて設計をするということである。われわれ人間は、歴史の流れといううねりを急旋回させるようなことはできない。未来は過去から現在へ続く流れの延長線上にしか存在しないのである。過去を顧みて現在までの流れを把握し、あるべき未来の方向性に向けて近い未来に向け何をするべきかを認識することが必要である。
歴史学者は、調査と推論によって、いつ何があったかを明らかにする。我々が対象とするような近現代の場合は記述資料や写真が残っている場合が多いので、民俗学のように伝承や遺物のみから過去を推し量り、しかも絶対的事実とは言い切れないような分野と比べれば“比較的”容易に過去を知ることができるといえるだろう。もちろん、記述された文章や記録も曲者で、あえて本質を隠したり、記述者に不利な状況は無視されるので、三輪先生の言の通りそれが正しい記述あるいは歴史を構成しているとは限らない。我々は他の同時代の資料にも当たり、その資料の意味する社会とのかかわりを解釈しなければならないわけである。
さて、少し前のことであるが、私自身が製鉄技術と社会の連関を調べてきたこともあって、鉄の歴史に関わる書物を読む機会を得た。佐々木稔著「鉄の時代史」(雄山閣)である。著者は東北大学の選鉱精錬研究所を経て八幡製鉄に入社、新日本製鐵時代は先端技術研究所に在籍していた鉄鋼の専門家であるが、退職後は神奈川大学歴史民俗資料学研究科で博士課程学生を指導するなどして技術史に関する造詣も深い。これまでにも、古代刀と鉄、あるいは鉄砲伝来とその技術伝承について特に専門の材質面からの検討を進めてきている。
この書籍の冒頭、著者は考古学・文献史学(歴史学)・技術史(理工学)の分野で製鉄に関わる研究は近年大きく進展したと指摘しているが、私は括弧書きになっている部分の方に注目した。もちろん、考古学は発掘された事物資料から過去の生活様式を類推しようとするもの、文献史学は現在残されている一次資料(その当時に書かれた原典)によって過去に起こった事実を整理しようとするものであり、ここで言う技術史はその時々の技術水準を同定することでその歴史的系譜を示そうとする試みである。とは説明できるものの、実は我々が行おうとしているような、社会と技術の系譜をつなぐものが現代の歴史系学問の範疇にはないということが明らかにされているともいえる導入である。
この著作の中で、筆者はその広範な知識を生かし、太古から近代まで、時代ごとの鉄最新資料を紹介、解析し、前記3つの視点を複合して立体的な記述を試みている。著者自身も本書内で、理工系(自然科学系)の研究者は考古学、文献史学の知識(方法論と歴史認識)を併せ持つことを、人文系の研究者は科学的な解析の原理や方法その分析結果の意味を理解するよう努力することが大事であることを強調している。このことは、私自身も過去の書評の中で指摘したことであるが、人文系の研究者はそれまでの伝統的・民俗学的常識に固執しがちで、科学的根拠に基づくデータを敢えて無視することがある。青森県の縄文時代遺跡三内丸山では、大規模柱構造物の柱穴底部の状態から土木工学の専門家が算出した上部構造物の重量から導出された屋根付という結論を無視して、それまでの常識に従い、算出値より大幅に軽い屋根の無い建物が復元された。これも、著者の指摘している現状の問題点が悪い方に現れた例の一つであろう。
機械工学の分野でも、特に技術と社会部門はこの矢面にいる。当部門は技術だけでなく、その社会との連関を考え、解析し、提言を行うことを目的として設立されたはずである。活動評価の最終年度に向け、さまざまの行事が企画されて来たが、その中でこの社会との関連あるいは連関はどのように対外的に伝えられてきたであろうか?たとえば、技術史もこれまでの経済学的視点から理工学側面からの技術史(工学史)を提唱してきたことは自画自賛ながら評価されよう。しかし、その技術変遷を社会史の面と連関させるという部分ではまだ不十分なのではないだろうか。工学者の自己満足ではなく、社会との関連を明確に指摘し、それによって、社会への提言を行っていくという設立時の目的を我々は今一度確認すべき時に来ていると思う。
さて、著者は本文を、人類が鉄使用を始めたとされる中東のヒッタイトから説き始めている。そして、鉄使用のはじめからどのようにわが国に鉄作りが伝播したのかを中東からアジアに至る遺跡群の発掘事例とそれらから発見された鉄滓の成分分析によりその系譜を明らかにする。たとえばこれが分野の融合であろう。科学者は成分分析のみ、考古学者は出土物の形態分析のみ、文献史学者は文字資料の分析のみというところからの脱却を表し、立体的な理解を助けるということになる。ただ、惜しむらくは当時の実社会との連関の記述がほとんどないことである。つまり文献史学ではない歴史学分野からの分析、記述に若干物足りなさが見られる。この後、わが国への鉄の伝来、古墳時代の生産が語られ、ついで北方への技術の伝播が語られるが、技術者の視点としては非常にそれぞれ興味深い記述が続く。
そして、最後の最後にわが国における砂鉄を用いた製鉄の創始の時期について、定説とは異なる著者の大胆な見解が淡々と述べられている。鉄に関しては紀元前にその加工技術がわが国に伝わったことはほぼ確認されている。そして、実際に製鉄技術が伝来したのはこれまで紀元四世紀ごろとされてきた。著者は各地で発掘された各時代の鉄製品の原料が磁鉄鉱と推定されることから、これらを輸入銑を精錬したものであると指摘し、わが国での砂鉄製鉄の開始をいわゆる鎖国政策による貿易制限により銑鉄輸入が困難になった17世紀後半であると主張するのである。
幕末に佐賀藩が反射炉を用いて鋳造した鉄製大砲の原料が地域の砂鉄銑では不具合がおき、外国船の船底のバラストを用いて成功にいたったことは有名であるが、このバラストは製品ではないので輸入制限からもれていたことが幸いしたと言われている。ことの適否は私には判断できないが、定説に固執しないであたらしい提案にも耳を傾ける柔軟性も必要であろう。
なにごともにも先入観は禁物であるが、特に科学・技術に携わるものにとっては、広範囲な資料の冷静な分析と判断が必要であることを示し、あらためて学問に携わることの意味を考えさせてくれた書籍であった。
学問は明治期以後追いつけ追い越せ政策からタコツボ化の過程を辿って来た。諸外国の博士がある分野の物知りを表す言葉ではなく物事の理に通じているということを示すDoctor of philosophy と呼称されることの本質を伝えるのが本部門の役割でもある。手始めに、現在他部門との合同見学会を企画しており、まずは機械遺産の意義づけについての共通理解を学会内に普及啓発していきたいと考えている。
長くなってしまったが、当部門の活動の横の広がりのため各位のご協力ご支援をよろしくお願いする次第である。