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趣味

秋田工業高等専門学校 創造システム工学科 機械系 5年
鎌田 楓真

「趣味はなんですか?」

 私が初対面の方と喋る時に必ず聞く質問である。
 お見合いによく使われると揶揄されるだけあって、この質問は会話の派生が非常にしやすい。 例えば、この質問に対して、自分が経験のある、もしくは今も趣味の一環である何かが回答されたなら、さぞかし会話が盛り上がるだろう。
 自分が1回も触れたことの無いようなものが回答されたなら、その内容や、なぜ好きなのかを質問すればいい。もしかしたら、その会話によって興味を持った自分に新たな趣味ができるかもしれない。
 これは1人の多趣味な男の話である。
 昔から好奇心旺盛だった私は幼少期から様々なことに興味を持った。友達が行っている英語スクールや音楽教室、上級生がグラウンドで行っていた様々なスポーツ。私はとにかく色々な経験をした。体験出来る塾や○○教室には、何度も足を運んだ。今思えば冷やかしもいいところだ。
 中でもスポーツは本当に面白かった。自分の体をどう使えば上手い人と同じようなプレーができるのか、まるで分からなかった。特に小、中学校の多感な時期は、周りと同じことしかしない塾よりも、個人でプレーの幅や質が違うスポーツの方に興味を持った。
 運動部に所属してからは、趣味に費やす時間が極端に減った。それでも私は色々なことに興味を持った。読書、音楽、映画鑑賞、散歩にツーリング、お金があったら一人旅もした。
 ある時、いつものように会話をしていたら友達から何気なく言われた。
 「なぜそんなに色んなことを趣味としているのか」と。
 私は"好奇心が旺盛だから"とか"昔から色々なことを体験したから"など、咄嗟に何か言おうと思ったが、横から別の友達にこう言われた。
 「こいつ、飽き性だから」
 その言葉に妙に納得してしまう自分がいた。
 例えば、料理を趣味にしている人がいたとする。その人は、自分が興味を持った料理をとにかく作り続け、納得できる味になったら次のレシピに進む。対して私は、興味を持った料理さえできてしまえばあとは別のことをするか、惰性で次のレシピを眺める程度のものだった。
 要は他の人と比べて目標のハードルが低いのである。多趣味であるということは、ひとつの事をやり続けられない、極めきれないということである。勘違いして欲しくないのは、私は飽き性であることを悪いとは思っていないし、多趣味の人はみな飽き性だ。と言いたい訳でもない。多趣味には、その分大きな利点があるのだ。
 例えば、私と他の人とでは、初対面の方とのコミュニケーションのハードルがまるで違う。
 私はコミュニケーション能力が異常に高い訳でもない。それにもかかわらず初対面でもある程度打ち解けられるのは、飽き性ゆえの多趣味のおかげである。これまで経験した趣味のどれかが掠っていればある程度会話は盛り上がる。特にスポーツは経験していてよかった。喜怒哀楽する場面が共通していることが多いからか、違う競技経験者でも会話は弾むのだ。
 初対面でも臆せず話せるというのは間違いなく大きな利点である。
学校生活や就職活動だけでなく、そういった経験は自信に繋がり、話に説得力を持たせることも出来るからだ。 長々と多趣味や飽き性について書き連ねたこの文章の目的は、飽き性をマイナスに捉えている人がいたら、それは自分次第で大きな利点になること、また趣味を持つことの素晴らしさを知って欲しかったからである。
 新しい友達が欲しい人、自分に自信が無い人、今、時間に余裕がある人、なんでもいいから新しいことを始めてみてほしい。願わくはそれを趣味として新しい自分を発見して見てほしい。

 さて、私は言いたいことが言えたので、そろそろこの文を締めようと思う。
そろそろ文字を打ち込む作業に飽きてきた。 私は飽き性なのだ。



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