田中館愛橘を追って
岩手大学大学院 総合科学研究科 理工学専攻 機械・航空宇宙コース 1年
深堀未久
【田中館愛橘】「この名前読める人いる?」という講義中の先生の一言が最初の出会いだった。田中館愛橘(たなかだてあいきつ)という人物は岩手県二戸市出身の物理学者で、航空工学やメートル法の普及に努めるなど日本の物理学黎明期を先導した人物である。この人物との出会いが後に私の学生生活を狂わせる(?)ことになる。
最初は気になる程度の気持ちで田中館を調べていたのだが、調べていくにつれ彼は業績だけではなく、一人の人間としても大変面白い人物だったことを知った。物理学が絡むと熱くなる田中館だが、私生活ではどこか抜けた人物であった。電車の切符は国内・国外問わず必ず紛失し、外出すると帽子や傘などをどこかへ置き忘れ、飲んでいたコーヒーカップがどれだったかまで忘れる※1程の忘れ物名人だったのだ。その大きなギャップは、いとも簡単に私を田中館沼へ突き落とした。それからは田中館関連の博物館やゆかりの地、最終的にはお墓参りに行くなど、華々しく田中館追っかけ生活が幕を開けたのだった。
そんな生活を続けて1年、岩手大学図書館で田中館本人が記した「TOKI WA UTURU」という書籍を見つけ館内で読んでいた。ボロボロだった表紙を開くと、1ページ目にページ全体を使うように大きく英文が墨で直書きされていた。(なんだ?)と思いつつ次のページに移ると、そこには小さく【|昭和23年10月12日|田中館愛橘寄贈|】とペンで記されていた。その瞬間私は固まった。頭が真っ白になるとは正にこのことである。その後自然解凍された私はようやく気が付いた。田中館がかつて触れていたものに私は今触れている事実に。そして、もう一つ重要なことに気が付いた。1ページ目に書かれていた墨字である。よく見ると、あれは落書きではなく田中館本人による直筆のメッセージであった。証拠として最後の行に田中館のマークに似たサインが入っている。博物館に行きまくってサインに見慣れていた私でなければ見過ごしていただろう。書かれていたメッセージの内容は
「盛岡工業専門学校※2に贈る / 遠慮なきご批評をぜひ」
彼がこの本を寄贈したのは亡くなる僅か4年前である。95歳の大往生だったため、当時の年齢は91歳。普通のサイン本ならば名前を大きく書くか、お手に取って頂きありがとうございます、とか書くものだと(勝手に)思っているが、この人はこの年齢になってももっと良いものを作ろうとしている、まだまだ学んで成長していく気なのだと気づくのにこの一文で十分だった。脱帽である。一生この人の居た場所に手が届かないことを悟ったと同時に、届かない故の憧れなのだと思った。田中館愛橘、私の一生の人生の指針である。
※1 諸説あり
※2 岩手大学工学部の母体になった学校
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