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成長は衰退への第一歩

東北学院大学大学院 工学研究科 機械工学専攻 1年
後藤秀平

 子供のころ、大人達が口々に「一年があっという間」と、年を取ると時間経過が早く感じると聞いて、意味が分からないこと言うなと思っていたが、まだ、大人の階段を数段しか上っていない私も同様に感じることが増えきた。高校ぐらいまでは、友人と何月には誰が遅刻した。とか、文化祭の思い出がどうだとか、数えきれない記憶を持ち出して話したものだ。しかし、近頃は、もう12月。や、一日やったことといえば、研究と…あとなんかやった?など、毎日が単調な日々というか、大味なものになってきている気がする。
 そもそも大人になると時間経過が短くなるのだろうと考えたとき、子供の一日と大人の一日について考えてみた。子供の頃は、見るものすべて真新しく、スーパーへ買い物に行ったり、公園で遊んだだけで新しい発見があった。一日の振り返ることが出来る記憶や経験が多く、毎日情報が更新されていく。しかし、大人になると目に・耳にしたことのある情報が蓄積されていくため、新しい発見が少なくなり、一日の記憶に更新される情報が減少する。つまり、時間経過の体感速度は、情報量に依存しており、大人の時間経過は速く感じるようになるのではないだろうか。しかし、主観でしかないが、YouTuberやキャスターなど新しいことをする・作り人や多くの情報を発信する人もいる。つまり、一日の情報料以外にも、他の要因が考えられるのではないだろうか。
 私は改めて、子供のころの自分と、大人になった自分を比較してみた。子供のころの自分は、勉強の知識や、ゲーム・漫画のキャラ、道端にある草の名前など何でもかんでも憶えていた。大人になってからは、漢字は調べればいい。英単語は覚える。研究に関しては覚えなきゃない。この知識は、友達に聞こう。など、何でもかんでも憶えようとはしていない。これは、大人の情報量が少ないだけでなく、記憶する情報を取捨選択しているのではないだろうか。自分に必要なことと、そうでないことを選択し、限りある記憶容量を保存しようとしているのだ。つまり、大人は、故意的に時間経過を早くしている。これは、ずる賢いような生き方のように感じるかもしれないが、大人になると気ままに生きることは難しく、様々な環境下よって立ち振る舞いを考えようと行動する事の代償のようなもので、生存本能のようなものではないだろうか。
 今回、時間経過について考えてみて、大人という生き物が悲しい存在に感じられた。社会のしがらみの中、当たり前のように何かルールに縛られて生きる。それを半世紀以上過ごしていくのかと思うと、足取りは重い。このあまりにも大きすぎる壁を、超えて一歩踏み出そう。と、自力でなんとかできる活力があふれる若者は大勢いて、尊敬に値する。しかし、私にはそんな気力は備わっていないので、私は戦略的撤退を取り、こんな駄文を書こうと思います。







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