目次へ戻る   前のページ   次のページ


将来の夢について

東北学院大学大学院工学研究科
機械工学専攻 1年 佐藤儀知

 現在、私は大学院の前期課程に在学している。この大学院の前期課程というものは、予備校(浪人時代)を除けば最も短い期間である。現在日本は不景気の真っ直中でもあり、ことさらに急いで進路を決めなくてはならない。今ここで、このような機会を与えられたこともあり、今まで私自身を振り返ってみたい。
 もしそれが学歴に入るのならば、その一番最初は幼稚園である。その頃、具体的に将来何になろうかなどとは考えていなかった。しかし、そんな私はおかまいなしに幼稚園の卒園文集は、「将来何になるのか」と問うて来た。私は自分の順番が来るまで、まわりの様子を伺っていた。女の子達のほとんどは、先生に「看護婦さん」と答えていた。誤解のないように書いておくが、当時の私は「クレヨンしんちゃん」のようにませていたわけではない。幼稚園に入る前に遊んでいたのは、隣のお姉ちゃんか妹であった。そんなわけで当時、途中入園をした私をいじめる男の子達よりよりも、何かと世話をやきたがる女の子達と一緒にいる方が何となく安心できた。話しは横道にそれてしまったが、そんなわけで私は、将来「歯医者さん」になりたいと答えた。医者ではないのは歯医者なら命を預ることはないと、当時なりに考えたからだ。それにしても当時の「将来何になるか」はまだ「将来の夢」に等しかった。
 小学校に入った。幸か不幸か私は長男であった。父は次男であり、実家から出ていた。つまり、私は父にとってプロトタイプとかβ版のようなもので、好きなように育てることができた。子供の頃、家には漫画はなく、かわりに図鑑がおかれていた(ちなみに現在の私はその反動からかどうかはしらないが、貧るように漫画を読むことがある)。図鑑しかなかった私は、学校ではクラスに一人はいる「知ったか振りのガキ」となった。そんな中で「おまえは学者になるんだよな」と皮肉られることがあった。図鑑の中で「理科の実験」というものが一番好きであった私は、腹の中で「違う、科学者だ」と思ったものだった。思えば、この頃に今に至る理系の道は決まってしまったのかも知れない。それでもまだそれは、「将来の夢」で現実には程遠いものであった。
 中学、高校と進む中で、残念ながら私の頭と努力は、「将来の夢」とのギャプに苦しめられはじめた。その夢とは裏腹に、文型科目は人並みであったが理系科目の成績はさっぱりだったのだ。それでも私は、同じく理系を志す友人と語り合う中で、エンジニアを志すようになった。だんだん「将来何になるか」が「将来の夢」より強くなっていったが、まず大学があり、その次に来るものとの認識であった。
 次は大学となればおめでたいのだが、浪人生となってしまった。しかし、浪人時代は意外と楽しかった。もちろん浪人生という確実でない立場に不安はあり、早く大学生になりたいと思うことは度々あった。それでも生まれ育ったところと違い、予備校のある仙台の本屋には、私の好奇心に応えてくれる本がたくさんあった。私は空き時間があると本屋に通い、それだけで楽しかった。だからといってそれが今何か役に立っているかというと余りそうとも思えない。ただ単に現実逃避をしていただけなのかも知れない。浪人生の当面の目標といえば大学生になることしかない。それはそうと、予備校に通った甲斐もあり1年間の浪人生活のみで大学に入ることができた。
 大学に入学した頃、私の入った寮には本学の大学院生や大学院を志す東北大学の先輩がいた。年齢を重ねるにつれ、「将来の夢」はまさに「何の仕事に就くか」という生臭い言葉に置き換えられることとなってきた。モラトリアムか孟母三遷の教えかは知らないが、そんな中で私は自然と大学院生を志すようになった。
 そして現在に至る、というわけである。もう後はない、進路はと問われれば、就職することと答えるしかないのだ(ことわっておきますが、うちの大学院に後期課程はちゃんとあります、ただ私が志望していないだけです)。一番重要なことを最も短い期間で決めなければならない。あらためて考えてみると、私はただ結論を先送りにしてきただけのような気もする。それでも順調にいけば2年後には何らかの仕事に就いているはずである。そのときこの残り1年半の執行猶予期間に悩み決めたことをどう考えるのだろう。


目次へ戻る   前のページ   次のページ