小竹進先生追悼記事

小竹先生と立山


林勇二郎(金沢大学)


めずらしく小春日和の日だった。つくばエクスプレスを常総線に乗り換え、下妻へと向かっていた。小竹先生の実家、八千代市での葬儀に出席するためである。やはり先生への弔問であろうか、列車には喪服姿の幾組かが乗り合わせていた。車窓からはつくばの田園風景が広がり、そのはるか遠くにたおやかな山々が連なる。

 先生とは、二日前に富山で最後のお別れをしたつもりだった。それが今、こうしてローカル線に身を委ねている。何か言い忘れたことがあったのだろうか。列車の振動に揺られながら、先生とつき合った30数年に想いを馳せた。

 熱工学や伝熱研究の将来について語り合った、福岡のシンポジウム。伝熱のパラダイムシフトを意図した、仙台でのフロンティアフォーラム。森先生が代表となって、日米の研究者が伝熱の最先端を論じたサンディエゴのセミナー。土方さんが金沢での第1回を企画した、ミクロ伝熱の日米セミナー等々。今日の熱工学や伝熱研究を方向づけ、その基盤となった様々な取組みがあった。そして、このような歴史の刻みの中心に、いつも小竹先生の存在があったように思う。

 先生とご一緒したのは、大学の研究室や学会の場ばかりではない。岐阜や金沢近郊の温泉では、熊田さんや西尾さんと共に常連だった。そしていつの頃からだろうか、富山と立山が先生のホームグランドになっていった。きっかけは、山男である先生を立山の春スキーに誘った自分にあるが、それを決定的にしたのは、富山大学の岩城さんだろう。90年代初めに小竹門下に入った岩城さんは、MD、QMD、QDの研究から、ログハウス造り、さらには登山・スキーとつき合ったからである。

 雷鳥沢、室堂平、天狗平の山スキーを楽しんだのは幾度になろうか。標高2800メートルの一ノ越から黒部湖に向けて、落差1000メートルの雄山谷を一気に滑り降りる醍醐味は、今も忘れられない。雪崩を避けブッシュをわけてのスキーは、まさにアドベンチャーであり、雷鳥荘の主人、志鷹さんの案内あってのことだった。剣御前で小屋を目前にしながら猛吹雪に見舞われ、寒さの中をさ迷ったこと、大日岳の花畑のぬくもりに昼寝をしたことなど、どれもこれも今は懐かしい。これらは小竹流に言えば、陰陽のめぐる大なる自然界における、小なる人間の伝熱的な体験だったかもしれない。

 山小屋の夜は長い。夜噺は、マイクロ・ナノスケールの伝熱から、生から死に到る生物相の変態論に及び、最後は決まって教育論へと発展した。先生の話の基底にあったのは、独創性・独自性のある研究であり、世界を見渡せる研究者の養成であった。

 今年も立山の小屋開きが近づいてきた。昨年はブルトーザーの操作を誤り、除雪ならぬ雷鳥荘の屋根を壊した先生である。今年こそはと、さぞ張り切っておられたことだろう。昨夏には、標高3000メートルの大汝の小屋に露天風呂を完成させ、「林さん、風呂を沸かしておくから、日本海に沈む夕日を見においでよ!」と誘ってくれた。しかし今は、あれもこれも適わない。

 先生は研究に厳しく、どちらかと言えば独立独歩を好み、分子伝熱の分野で孤高を築かれた。それは世界の先々を見通し、かつ先導する研究であった。それでいて、先生は分け隔ての無い心根の優しい教育者であった。立山の厳しい自然を愛し遠くを眺めてきたのも、研究と共通した生き様だったのかも知れない。そして、あの茫洋たる比類なき研究者を育んだのは、下妻の地である。ゆっくりと車窓に流れる下妻の景色は、小春日和の中で一段と穏やかであった。

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