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機械工学年鑑2023

24. 法工学

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24.1 知的財産権

大学における知財ガバナンスの課題と今後の対応 -大学知財ガバナンスガイドライン-

2023年3月29日、内閣府、文部科学省及び経済産業省は、「大学知財ガバナンスガイドライン」を取りまとめて公表した。これは、大学知財の社会実装に向けて、大学における知財マネジメント及び知財ガバナンスに関する考え方を示したものである。

本稿では、大学における知的財産活動の現状と課題について整理したうえで、「大学知財ガバナンスガイドライン」について説明し、今後の対応について考察する。

Ⅰ.大学の知的財産活動の現状と課題

日本では、大学からの特許出願件数は、近年、堅調に推移しており、最近では、年間1万件前後となっている[1](図1)。大学からの特許ライセンス(件数、収入額)についても、堅調に推移している[2](図2)。

しかしながら、現在、大学において、事業化を見据えた知財マネジメントの不足、大学知財の社会実装機会を確保するための体制及び予算などに課題があり、スタートアップの支援を含めて、大学の知財エコシステムの強化に向けた対応が求められている。

 図1 大学による特許出願件数

  図2 大学による特許等実施件数及び収入額

Ⅱ.大学知財ガバナンスガイドライン

大学知財ガバナンスガイドラインには、4つの項目に対応して「プリンシプル」が示されている。以下、各プリンシプルの概要ついて説明し、今後の対応について考察する。

 

1.知財ガバナンスの方針策定
1-1 大学知財に関する基本的な考え方の整理

(概要)

大学では、大学知財に関する基本的な考え方を整理することが必要である。例えば、その大学にとって大学知財はどのような役割を持っているのか、その大学は大学知財をどのように活用するのか等、その大学にとっての大学知財の位置付けや考え方を整理することが必要である。

(解説)

大学知財に関する基本的な考え方は、各大学において「知財ポリシー」に示されており、現在、全国で375校の大学等において、既に知財ポリシーが策定されている[3]。今後は、社会情勢の変化に対応して、各大学において「知財ポリシー」の見直しや改定を検討することが重要である。

 

1-2 ステークホルダーに対するインセンティブ施策
(概要)

大学は、ステークホルダーに対するインセンティブ施策を講ずることが必要である。学外ステークホルダーに対するインセンティブ施策としては、例えば、スタートアップへの知財ライセンス、スタートアップへの研究施設や教育プログラムの提供等がある。学内ステークホルダーに対するインセンティブ施策としては、例えば、社会実装に結び付いた優良発明を創出した者の評価や表彰等がある。

(解説)
最近では、スタートアップへの社会的な関心が高まる中、大学においても、スタートアップに対するインセンティブ施策が注目されている。例えば、大学等発ベンチャー認定制度を導入している大学は、現在(令和3年度)、98校であり、前年度から15校、増加したことが報告されている[4]

 

2.知財マネジメントのプロセス管理

2-1 マーケティングに基づく一気通貫の知財マネジメント
(概要)
大学は、マーケティングに基づく一気通貫の知財マネジメント、すなわち、①ネットワーキング、②研究、③知財確保、④知財ライセンス、⑤事業化支援、⑥権利行使を実施することが重要である。

(解説)
社会実装の最大化は、知財の確保やライセンスのみ(狭義の知財マネジメント)では達成することは難しいため、マーケティングに基づく一気通貫の知財マネジメントが重要である。企業においても、これを実現するためには、知財部門、事業部門、研究開発部門の「三位一体」の連携が推進されている[5]

 

2-2.共同研究における大学知財の権利帰属と実施権限

2-2-1 大学による権利持分の確保
(概要)
大学は、大学知財の権利持ち分の確保を目指すことが重要である。共同研究先以外の事業化主体による事業化が見込まれない等の特別の事情がある場合には、大学が権利持分を保持し続ける必要性は低く、大学の権利持分を共同研究先に譲渡することも考えられる。

(解説)
産学連携で成功している米国では、大学等の特許出願の大半が単願で行われ、大学等が単独で特許を保有していることが指摘されている[6]

 

2-2-2 共同研究先による大学知財の社会実装と大学と共同研究先の間の情報共有
(概要)
大学は、共同研究先との契約において、「契約で定める期間内に共同研究先が大学知財の社会実装に向けた具体的な目標を達成すべきこと」、「大学と共同研究先は、共同研究先による社会実装の状況又はその準備状況を把握するために必要な限度において、情報共有を行うべきこと」、「大学は、共同研究先に対して社会実装に向け可能な協力を行うこと」を明記することが重要である。

(解説)
共同研究先による大学知財の社会実装と大学と共同研究先の間の情報共有には、共同研究先との契約が重要であり、「モデル契約書(大学編)」が参考になる[7]

 

2-2-3 大学による第三者への実施許諾権限の確保(事業分野毎の実施許諾)
(概要)
大学は、共同研究先が実施を予定している事業分野以外の事業分野について、共同研究先が将来事業を行う可能性に対する配慮措置も講じつつ、第三者に実施許諾する権限の確保を目指すことが望ましい。そのためには、大学は、共同研究先が実施を予定している事業分野にとらわれず、広い権利範囲の確保を目指すことが重要である。

(解説)
共同研究先が将来事業を行う可能性に対する配慮措置の例として、本ガイドラインでは、オプション権及び優先交渉権(Right of First Refusal)が示されている。

 

2-2-4 大学による第三者への実施許諾権限の確保(共同研究先が社会実装しない場合)
(概要)
大学は、共同研究先との信頼関係及び意思疎通の下、共同研究先が契約で定める期間内に社会実装に向けた具体的な目標を正当な理由なく達成していないと判断した場合は、大学の判断で第三者に実施許諾できる権限の確保を目指すことが重要である。

(解説)
大学と企業との共有特許について、企業が一定期間、不実施の場合に、大学が第三者にライセンスすることが可能となるような共有特許の取扱いルールの整備について、現在、検討されている[8]

 

2-2-5 紛争解決手続
(概要)
大学は、共同研究成果の権利帰属等を巡って、大学と共同研究先との間で見解の相違が発生する場合も考えられる。そのような場合に備えて、共同研究先と議論の上、紛争解決手続を共同研究契約においてあらかじめ定めておくことが望ましい。

(解説)
紛争解決手続の例として、本ガイドラインでは、知財ライセンスの専門家から構成されるパネルの活用、調停、 ADR機関の活用が示されている。

 

2-3.大学研究成果のスタートアップへのライセンスの考え方
2-3-1 スタートアップのエクイティ引受けの積極検討
(概要)
社会実装機会の最大化及び資金好循環のために、大学は、適切と判断する事案について、ライセンスの対価として、スタートアップの株式・新株予約権(エクイティ)を選択肢として積極的に検討することが重要である。

(解説)
現在、社会においてスタートアップの存在意義は、大きくなっている。今後は、各大学において、スタートアップの株式・新株予約権の取得が進む中、スタートアップの推進が期待される。

 

2-3-2 スタートアップのエクイティ引受け時の留意点
(概要)
大学がライセンス対価としてエクイティの引受けを検討する際には、ライセンス先のスタートアップの資力に加えて、スタートアップへの貢献による企業成長を通じた将来の企業価値を踏まえて判断することが重要である。

(解説)
スタートアップは、まだ事業を始めて間もない企業である。そのため、大学は、将来の企業価値に向けた投資としてスタートアップの将来の企業価値を認識したうえで、ライセンス対価としてエクイティの引受けを検討することが望ましい。

 

2-3-3 エクイティ数量に関する留意点
(概要)
エクイティの数量を検討する際には、大学は、スタートアップの資本政策上の制約を認識した上で、合理的な論拠に基づき、スタートアップと交渉することが重要である。大学は、スタートアップに対して、新株予約権の数量についての合理的な理由を説明することが望ましい。

(解説)
現在、スタートアップへの知財の移転に係る新株予約権による適正な対価取得の在り方について検討されており[9]、このような取り組みにより、大学とスタートアップとの交渉の円滑化が期待される。

 

2-4.特許の質の管理
2-4-1 事業化を見据えた質の高い特許権の取得
(概要)
出願前のアイデア段階から、将来の事業化主体候補を探索し、その意見を聞く、又は、ベンチャーキャピタル等に意見を聞くことにより、事業化を見据えた質の高い特許権の取得を目指すことが重要である。

(解説)
大学では、出願前のアイデア段階から、共同研究先やライセンス先候補を探し始める体制が求められる。また、できる限り早い段階から、知財の専門家に相談することも重要である。

 

2-4-2 広い権利範囲の確保
(概要)
共同研究において、大学は、共同研究先企業等が想定している事業分野以外への展開可能性に目を向けて、共同研究先が実施を予定している事業分野にとらわれず、広い権利範囲を確保することも重要である。ただし、過度に広い権利範囲を追求することは出願の遅延等にもつながるため、大学は、共同研究先の事業への影響に配慮が必要である。

(解説)
広い権利範囲は有益であるが、特許出願を遅延させないことも重要である。新規性喪失の例外適用も可能であるが、第三者が同じ発明について先に特許出願していた場合や先に公開していた場合には、特許を受けることができない点に注意が必要である[10]

 

2-4-3 フェーズゲート管理による特許ポートフォリオ管理
(概要)
出願・権利化・維持の手続において、フェーズゲート管理を実施し、特許の選別を行うとともに、事業に資する特許ポートフォリオを構築することが重要である。

(解説)
特許ポートフォリオは、企業における知財戦略として普及しており[11]、今後は、大学としても、フェーズゲート管理により、特許ポートフォリオの構築が求められる。

 

2-4-4 適切な人材による発明の評価
(概要)
発明の評価においては、客観的な基準に基づき、特許性と市場性を判断するとともに、特許請求の範囲の最適性を評価することが重要である。また、その能力を持つ適切な人材を配置することが重要である。

(解説)
発明の評価においては、特許性と市場性に関する客観的な基準を作成し、客観的な評価(例えば、点数による評価)を行うことが一案である。

 

2-4-5 大学と共同研究先による権利内容の検討
(概要)
共同研究において、大学は、共同研究先企業等が想定している事業分野以外への展開可能性に目を向けて、大学知財の社会実装機会の最大化を目指すことも重要である。このため、大学は、企業側の検討結果を再検討し、更なる上位概念化を図ることや、応用可能な他の事業分野の実施例を拡充する等の作業を行った上で、権利内容を確定することが肝要である。

(解説)
権利内容の検討においては、特許庁審査官との面接審査も有効である。面接審査の実績としては、2021年において、計1,689件(うち、オンライン面接1,423件)の面接審査が実施されており、最近では、オンライン面接も積極的に行われている[12]

 

3.体制構築
3-1 大学の知財ガバナンスの徹底
(概要)
大学は、プリンシプルに基づいて知財マネジメントプロセスの管理・監督を実現するため、その責任者である大学知財ガバナンスリーダーを設置して大学の知財ガバナンスを徹底することが重要である。

(解説)
知財マネジメントの責任や権限の所在が不明確では、プリンシプルに基づく知財マネジメントが困難になる。各大学では、学内規則などにより、大学知財ガバナンスリーダーの責任や権限を明確化することが重要であると考えられる。

 

3-2 大学知財ガバナンスリーダーの人材要件
(概要)
大学知財ガバナンスリーダーは、大学の知財ガバナンス改革をリードするリーダーシップ、関係者を巻き込むコミュニケーション力に加えて、スタートアップビジネスを含む幅広いビジネスリテラシーを備えることが望ましい。

(解説)
大学知財ガバナンスリーダーには、リーダーシップが求められることから、大学の執行部(学長、副学長など)の人材がその役割を担うこともある。なお、大学知財ガバナンスリーダーにスタートアップビジネスへの理解があれば、大学によるスタートアップ支援が積極的に推進されることが期待される。

 

3-3 大学知財ガバナンスリーダーの役割
(概要)
大学知財ガバナンスリーダーは、プリンシプルに基づいて業務設計を行うことが重要である。大学知財ガバナンスリーダーの下には、学内実動人材を置き、大学知財ガバナンスリーダーを実動面からサポートすることが望ましい。

(解説)
近年、大学における産学連携スタッフ数は、安定に推移しており、学内で一定の実働人材が確保されていることが窺われる[13]。なお、本ガイドラインでは、学内実動人材は、有期ポストとしたり、ローテーションで数年ごとに変わることは望ましくないことが指摘されている。

 

3-4 執行部の役割
(概要)
執行部は、大学知財ガバナンスリーダーが知財マネジメントプロセスの管理・監督を確実に実行できるよう、大学知財ガバナンスリーダーの活動を適切に支援・保証することが重要である。

(解説)
大学知財ガバナンスリーダーは、執行部(学長、副学長など)と密に連携し、必要な場合には、執行部の支援の下で、学内の関係者に働きかけて大学の知財ガバナンスの徹底を目指すことが望ましい。

 

4.必要な費用に基づく予算計画の策定
大学知財ガバナンスの予算計画
(概要)
プリンシプルを達成するため、大学は、必要な費用に基づいて予算計画を策定することが重要である。予算計画は過去の費用のみを基に策定するのではなく、マーケティング機能の拡大等、新しい活動に必要な変動費及び固定費を算出することが重要である。
特許の場合には、将来的な活用可能性が高い特許に重点的に予算を充てる一方で、活用可能性が低い特許への投資は控える等、メリハリのある予算計画とすることが重要である。

(解説)
知的財産活動を含む産学連携に向けた「大学の内部資金」は、近年、安定に推移しており、知的財産活動が大学業務として定着しつつあることが窺われる[14]。今後は、各大学の特色を活かした知的財産活動に向けて、メリハリのある予算計画が求められる。

 

Ⅲ.おわりに

本稿では、大学における知的財産活動の現状と課題について整理したうえで、「大学知財ガバナンスガイドライン」について説明し、今後の対応について考察した。

今後は、大学における知財ガバナンスが強化される中、コロナ禍も収束し、産学連携が活発に推進されることに期待したい。

〔加藤 浩 日本大学〕

参考文献

[1] 文部科学省「大学等における産学連携等実施状況について(概要)」(2023年2月)P.13

[2] 文部科学省「大学等における産学連携等実施状況について(概要)」(2023年2月)P.11

[3] 文部科学省「大学等における産学連携等実施状況について(個別実績)」(2023年2月)

[4] 文部科学省「大学等における産学連携等実施状況について(概要)」(2023年2月)P.17

[5] 特許庁「企業価値向上に資する知的財産活用事例集」(2022年5月)P.8~P.9

[6] 内閣官房「知的財産推進計画2022」(2022年6月)P.25~P.26

[7] 特許庁「オープンイノベーション促進のためのモデル契約書(大学編)」(2022年3月)

[8] 内閣官房「知的財産推進計画2022」(2022年6月)P.24~P.28

[9] 内閣官房「知的財産推進計画2022」(2022年6月)P.18~P.19

[10] 特許庁「発明の新規性喪失の例外規定の適用を受けるための出願人の手引き」(2020年12月)P.1

[11] 特許庁「企業価値向上に資する知的財産活用事例集」(2022年5月)P.70, P.92

[12] 特許庁「特許行政年次報告書2022年版」(2022年7月)P.218

[13] 大学技術移転協議会「大学技術移転サーベイ」(2022年6月)P.59~P.60

[14] 大学技術移転協議会「大学技術移転サーベイ」(2022年6月)P.65~P.67

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24.2 業務上過失事件裁判例研究会

法工学専門会議では,題目に記した「業務上過失事件裁判例研究会(会員26名)」を立ち上げて,表1に示す22件の裁判例を分析している.分析方法として,まず,「事件の概要および教訓」を工学者が記し,次に,「裁判の結果の解説」を法学者が記し,2つの方向から事故を分析する.

前者は,一般的に工学者が行う事故調査である.すなわち,まず原因調査して,次に再発防止策を練る.筆者も「失敗学」の観点で表1の事故を分析し,著書「失敗百選」(1)「続 失敗百選」(2)「続々 失敗百選」(3)で発表した.しかし,後者は裁判記録自体が入手できずに手が付けられなかった.

後者は,一般的に法学者が行う判決分析である.すなわち,裁判の争点や法廷の戦略を説明する.だが,普通の工学者は,法学の講義を受けたことがなく,最初は読んでも理解不能である.筆者は,幸いにも法工学専門部会において,工学博士兼弁護士の近藤惠嗣先生から法学の基礎を学び,同研究会にもオブザーバとして出席できた.しかし,それでも,法学者と工学者の目線が大きく異なるのに驚いた.

工学者は常に新しいものを設計しているから,どこかで必ず失敗する.もちろん,できるだけ失敗の事前回避・損失低減に努めるが,外乱や機能干渉のすべてを想定できない.リスクはゼロに限りなく近いが,ゼロではない.まずは,リスク発現の非常時に備えて,工学者も法学を学ぶべきである.

表1 業務上過失事件裁判例研究会の分析対象

1.    福知山線脱線事故
2.    三菱自動車リコール隠し・ハブ破損事故
3.    焼津沖日航機ニアミス事故
4.    パロマガス湯沸かし器一酸化炭素中毒事故
5.    明石砂浜陥没事故
6.    明石歩道橋群衆事故
7.    六本木ヒルズ回転ドア事故
8.    雪印乳業食中毒事故
9.    日航機MD-II乱高下事故
10.  JCO臨界事故
11.  信楽高原鉄道列車衝突事故
12.  渋谷シェスパ・ガス爆発事故
13.  エキスポランド・ローラーコースター脱線事故
14.  森永砒素ミルク事件
15.  ホテルニュージャパン火災
16.  北大電気メス事件
17.  千葉大採血ミス事件
18.  広島市クレーン倒壊事故
19.  徳山コンビナート火災
20.  国分川水路トンネル水没事故
21.  シンドラーエレベータ事件
22.  コストコ車路崩壊事件

図1 シンドラーのエレベータに挟まれて死亡.ソレノイドが“半クラッチ”し,シューが摩耗し,停止時の摩擦力が減じた(2)

今回の研究会で取り上げる事件は,「業務上過失致死罪」の事件である.日本の刑法38条には「罪を犯す意思のない行為は罰しない.ただし,法律に特別な規定がある場合はこの限りではない」とある.原則的に,無自覚,不注意,懈怠,などで起きた過失は無罪である.しかし,19世紀半ば頃から,鉄道,船舶,自動車,医療,土木などの技術が進歩して事故が頻発した.それまでも,たとえ過失でも損害賠償は裁決されていたが,加えて加害者に刑罰を与えるようになった.でも,日本では5年以下の懲役(ほとんどの場合,執行猶予が付く)と100万円以下の罰金と,刑は軽い.

実際は,刑事裁判と並行して,被害者救済目的の損害賠償請求の民事訴訟と,加害者の活動を制限する行政庁の行政処分とが始まる.本研究会では,「被害者救済も再発防止もこの二つで十分ではないか?」という議論もあった.「業務上過失致死罪」は刑が軽く,加害者に「不名誉」を与えるだけで,加害者の属する会社は痛くも痒くもない.実際に米国の航空業界では,事故が起きても機長は過失で起訴されない.上述の民事訴訟と行政処分を活用し,規制局によって再発防止策を厳守させているので,安全運航が実現した.

しかし,日本は欧米と少し違う.事故が起きると,マスコミが「責任者は出て来い」と叫び,経営者や技術者を徹底的に叩く.確かに,明治維新以来,工業界は富国強兵や高度成長を進める余り,安全を軽視し,原因を隠蔽してきた.しかし,2000年頃から潮流が変わった.もはや,終身雇用が崩壊し,失敗情報は容易に拡散し,もう隠蔽は難しい.

上述したように,工学者と法学者とでは視点が異なる.工学者は事件の全体像を把握するために全方位的に漠然と記述するが,結果的に誰が主犯者なのか判然としないのが短所である.一方,法学者,特に検事は,被告を立件して有罪判決を勝ち取るために,一点集中的に争点を絞るが,争点以外は証拠さえ隠匿するのが短所である.

たとえば,筆者らの共著「法工学入門」(4)で指摘したが,シンドラーエレベータ事故でも両者の視点が異なっていた.この事故の主原因は図1のブレーキ故障にある.ここでは,ブレーキシューがソレノイドの伸縮によって開閉するが,停止時はバネによってシューはドラムに押し付けられる.しかし事故時は,ソレノイドが短絡して伸びが不足し,運転時はブレーキシューとドラムとが「半クラッチ状態」のように摺って,シューの摩耗が進んだ.ついに(事故後の同型機による追試では1日後に),ソレノイドが最も縮んだストロークエンドに達しても,シューはドラムに接しなくなった.停止時にドラムが停止できず,釣合い重りでエレベータの籠が上昇し,降車中の高校生が籠と出口枠とに挟まれて窒息死した.

自動車や鉄道車両のような乗り物は,ストロークエンドに達したら,ラチェットでシューの作動域を前進させるような自動機構の設置が法律で課されている.何でエレベータには付いていないのか? それはエレベータが乗り物ではなく,建物の付属物であり,ブレーキでは時代遅れの建築基準法に準拠するからである.

ところが,裁判の争点は設計上の問題ではなく,保守業者の問題であった.作業手順書によれば,ストロークエンドに達したら,保守業者は図1の調整ボルトAを用いて,エンドに達する前にシューが接するように位置調整する.一審では,事故の1週間前に保守した業者が,ブレーキシューの摩耗粉の散乱を見過ごしたとされて有罪となったが,二審では摩耗粉は生じていなかったとされて無罪となった.裁判結果から再発防止策が想定できない.

表1の裁判例を読むと,すべての事例で驚きが得られる.検事は勝訴で責任追及する戦略を重視するあまり,真実解明や再発防止は二の次になった.それでは技術者が不名誉者になるだけで,技術は進歩しない.

〔中尾 政之 東京大学〕

参考文献

(1)中尾政之,失敗百選(2006),森北出版

(2)中尾政之,続 失敗百選(2011),森北出版

(3)中尾政之,続々 失敗百選(2016),森北出版

(4)日本機械学会編,法工学入門(2014),丸善出版

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