トピックス メタバースの活用
東京大学メタバース工学部の活動
はじめに
筆者は、メタバース工学部における中高生向け教育プログラムである「ジュニア工学教育プログラム」を運営するジュニア講座部会の部会長としてメタバース工学部の活動に参画している。そこで、本稿ではメタバース工学部の全貌を簡単に説明した上で、当該教育プログラムについて具体的な講座例も含めて詳述する。
メタバース工学部
多様な工学の魅力を幅広い方々へ届ける場
現代の社会は、新たな技術の進歩と労働スタイルの変容が引き起こす産業界の変革に対応せねばならない状況にある。これに応える形で、2022年9月に設立されたのが東京大学メタバース工学部である(図1)。メタバース工学部は、異なる背景を持つ人々へ最新の工学と情報学の知識を提供することにある。
ただし、メタバース工学部は文部科学省によって正式に承認された大学の一部ではないことを明記しておく。これは多様な個々の学びの機会を提供し、工学分野のキャリアパスに関する情報を普及させる新たな教育のプラットフォームを指すものである。
メタバース工学部の設立の目的は、公式ウェブサイト(1) (2)を参考に、次のように要約できる。技術革新の波と多彩な労働環境の登場により、工学と情報学への興味は増しており、個々の学習者から社会全体まで、これらの知識への要求が増大している。それに応える形で、東京大学大学院工学系研究科は、デジタル技術を駆使した新しい学びの場としてメタバース工学部を立ち上げた。メタバース工学部は、すべての人が最新の工学と情報科学を平等に学習でき、より多種多様な人々が未来の社会を築くために参画できるような環境を提供することを目指している。
メタバース工学部は、次に示す三つの主要な活動を行っている。
1. ジュニア工学教育プログラム
ジュニア工学教育プログラム(以下、「ジュニア講座」とする)では、主に中学生や高校生、その保護者、さらに教師向けに、工学や情報学について無償で学習することができる主としてオンラインの講座を提供している。講座によっては、産業界と大学が協同で運営しているプログラムもある。これはDX(デジタルトランスフォーメーション)に対応した人材育成に貢献する活動であるといえる。具体的な内容は次章以降で述べることとする。
2. リスキリング工学教育プログラム
リスキリング工学教育プログラムは、主に社会人(会員企業の従業員)と学生が対象で、再学習やスキル再獲得(リスキリング)を支援することを目指している。AI、起業家精神教育、次世代通信などの最新の工学や情報技術についてオンラインで学習する教育プログラムが設けられている。受講者のニーズに応じた多彩なコースが開設され、評価基準を満たす受講者は講座の修了証を得ることができる。
3. 工学キャリアに関する総合情報サイト
工学キャリアに関する総合情報サイトの設置を予定している。現在のメタバース工学部のホームページ(3)を図2に記載する。対象は中高生、保護者、教師、工学部の学生という広範な層で、工学キャリアに関する情報を提供し、特に現状ではロールモデルが不足している女性のキャリア形成を支援することを目指している。これはDX人材の多様性を促進する活動であるといえる。教職員だけでなく、学生・大学院生、さらに産業界の若手社員も参画し、産学連携の形を実現しながら活動を進めている。
図1 メタバース工学部の構想
図2 東京大学メタバース工学部ホームページ
ジュニア講座
主にオンラインの中高生に向けた無償の講座
ジュニア講座では、参加費無料でさまざまな工学の学習やキャリアパスを紹介する講座やイベントを提供している。主に中高生、保護者、教師が受講対象となっているが、講座によってはそれら以外の人々も受け入れている。講座は一回限りの講義ではなく、少なくとも2回以上の講義が組み合わさって構成されており、それぞれの教員が自身の専門分野を生かして進行している。
表1には2022年度秋期(10月から3月)に開講された講座の一覧、表2には2023年春期(4月から9月)に開催される講座の一覧を記載している。2022年度秋期の講座には、約3,000人が受講登録を行った。そのうち約6割が中高生で、残りの4割には大学生、保護者、教職員、社会人が含まれていた。
次章以降で具体的なジュニア講座2例「メタバースを作ろう」「起業入門~困っていることを解決しよう~」の詳細を記述する。
表1 2022年度秋(10月~3月)のジュニア講座一覧
表2 2023年度春(4月~ 10月)のジュニア講座一覧
ジュニア講座「メタバースを作ろう」
メタバースについて学び、自分たちで作る
本講座は、東京大学工学系研究科が協力しているバーチャルリアリティ教育研究センター(4)が開講する講座(5)である。バーチャルリアリティ(VR)というメタバースの核心技術の最新研究について学び、参加者自身がVR空間やメタバース環境(ワールドやシーン)を設計できるようになることを目指す講座である。
教員は2022年度開講時の肩書で、東京大学大学院情報理工学系研究科 相澤清晴教授、同学先端科学技術研究センター 稲見昌彦教授、同学大学院情報理工学系研究科 葛岡英明教授、同研究科 雨宮智浩准教授(6)、同学先端科学技術研究センター 青山一真特任講師、東京大学大学院情報理工学系研究科 伊藤研一郎特任助教が担当した。
本講座は5つのセッションから成り立っている。最初の2回はVRというメタバースの核心技術の最新研究について紹介した。その次の2回は、参加者が自身のVR空間やメタバース環境(ワールドやシーン)を設計する実習を行った。最後のセッションでは、各々が創り上げた作品を体験する時間を設けた。以下、それぞれの回について説明する。
第1回「イントロダクション・先端VR講演(1)」では、VRやメタバースに関する説明があった。そして、感覚を電気刺激で作り出す研究などを含め、平衡感覚、味覚、視覚などを活用する研究の紹介がされた。
第2回「先端VR講演(2)」では、非言語的コミュニケーションについて説明された。身振り手振りなどのノンバーバルコミュニケーションが重要であるとし、メタバースではこうした豊かな非言語コミュニケーションが可能になることが紹介された。また、身体を自在に使えるメタバースやVRの可能性についても語られた。例えば視覚と触覚の双方があると身体化が進むこと、VRを利用したけん玉などの体験を通じてスキルが向上する可能性などが紹介された。
第3回「メタバースをつくろう(1)」では、MozillaによるSpokeを使ったVR空間を作るチュートリアルが行われた(図3)。具体的には、Spokeを用いることで3Dモデルや音声などのアセットをインポートして、VR空間を作り上げる方法が紹介された。また、作ったVR空間はパブリッシュして他の人が体験できるようになり、URLを送信することで誰でも参加できることも共有された。
第4回「メタバースをつくろう(2)」では、3Dモデルの基本的な概念として頂点、面、テクスチャ、マテリアル情報などが紹介された。さらに、アバター作成ツールを用いてアバターを作成し、それをSpokeにて使う手順が説明された。
第5回「最終発表会」では、受講生が作ったさまざまな作品が共有された。具体的には、水の中にある岩でできた会議室、VTuberのためのライブ会場、樹海を意識した空間、授業をできるような教室、迷路など多岐にわたった空間が共有された。
受講者のコメントを以下に示す。
「今までなんとなくでしか知らなかったVRのことを深く知ることができ、また、それに関する研究もとても面白いものばかりで見ていてとても楽しかったです。」
「想像以上にたくさんの研究分野があって驚きました。お話を聞く限り、とても医学的な知識を要するようで、将来こちらに進みたいので苦手な生物もしっかり勉強しなくてはと、勉強のモチベーションにもなりました。」
「最初はメタバースに全く詳しくなく軽い気持ちで参加しましたがメタバースの奥深さ、将来性にとても驚きました。」
担当教員のコメントを以下に示す。
「中高生を中心に、小学生から定年退職された方まで非常に多くの方にご参加いただきました。メタバースに対する高い期待と、受講に対する熱意を感じることができました。普段の大学生からの反応とは異なることもあり、講師側も刺激を受けました。」
図3 Spokを用いたVR空間作成
図4 最終発表会の様子
ジュニア講座「起業入門 ~困っていることを解決しよう~」
起業を将来の選択肢の一つに
本講座は、中高生が起業についてより親しみやすい感じを持つことを目的とした講座(7)である。現在、ベンチャーキャピタルや助成金といった資金供給源の豊富さや多数のインキュベーションやアクセラレーションプログラムの存在により、起業に向けた環境は整ってきている。さらに、問題の発見や解決能力といった、起業に必要なスキルは、一般のビジネス環境や学界においても非常に有用なものである。
そのため、この講座を通じて、「起業は自分自身の未来の選択肢の一つである」という認識を深めること、そして起業プロセスで得られる知識が広範に活用可能であることを体感することを期待している。
教員は筆者であり、3名の学生が講座の運営サポートに参加した。筆者とそのうちの一人の学生は、研究室のプロジェクトを基に起業を行っており、その経験を共有することも可能であった。
本講座は全6回で構成され、初めの4回では知識の提供と起業への理解深化を重視した。最終回に先立つセッションでは、事業アイデアの洗練を目的として任意参加の時間を設けた。最終回では、優れた成果物を提出した参加者にバーチャル東大の安田講堂にてその内容を発表する機会が与えられた。詳細な内容を以下に示す。すべての講座に参加し、最終的な課題を提出した者には参加証が授与された。
初回の「イントロダクション」では、起業に関する全体的な知識と情報が提供された。また、実際に起業を経験した学生の経験を共有することにより、参加者が起業に対する理解を深める時間となった。
第2回の「課題を発見しよう」では、起業に不可欠な問題発見についての情報が提供された。起業家のアイデアの源泉となった体験などを紹介し、課題探しの際のヒントを提供した。
第3回の「課題を深掘りしよう」では、自らが設定した仮説の検証方法を紹介した。課題を深く探究し、その課題がなぜ発生し、どのような影響を及ぼしているかについて考えることが重要と強調した。次回で取り上げる解決策を考える際のヒントも紹介した。
第4回の「解決策を考えよう」では、それぞれが特定し、詳細に調査した課題に対する解決策を考える時間とした。ゲスト起業家も参加し、具体的な解決策の考察に関する方法を共有した。
特別セッション「課題と解決策をブラッシュアップしよう」では、これまでの学びを活用し、問題と解決策をさらに洗練させる時間を設けた。参加者それぞれのアイデアを共有し、互いにフィードバックを行うことで、最終課題の質を向上させる支援を行った。
最終回「優秀者による発表会」では、参加者の中から選出された優秀者が自身のアイデアを発表した。メタバースプラットフォーム cluster上で構築されたバーチャル安田講堂が発表の場として使用された。6名の参加者が選ばれ、それぞれが5分間のプレゼンテーションを行い、その後4分間の質疑応答が行われた。具体的には、「路上パフォーマー支援」「ペット健康管理」「メタバース学校」「ご高齢者向けのパスワード管理機器」「VTuberご当地NFT」「メタバース旅行」というテーマで発表が行われた。すべての発表は各参加者が抱える問題をベースにしており、他の参加者からの評価も高かった。
受講者のコメントを以下に記載する。
「工学部はモノを作るだけなのかと思っていましたが、社会を変える大きな力があることを学びました。大学の学部を選ぶ時のとても良い参考となりました。」
「仮想空間に入ったのは、家族みんな初めてで、ワクワク楽しみながら皆さんの発表を拝見できました。安田講堂の中を歩き回り、貴重な体験ができました。」
「僕は発表させていただいた側なので本当に感動しました。本当は本物の安田講堂に行ってみたかったのですが、十分雰囲気が伝わりました。」
「短い間でしたが、ありがとうございました。毎週楽しみにしていました。コロナ禍の学生生活の中で、学校外の人たちと繋がり、嬉しかったです。また、講義を聴けたら幸いです。」
教員のコメントも以下に記載する。
「メタバース空間の利用により、学生の皆さんからの反響は大変良かったですし、そのリアルな体験が参加者の意欲を刺激したと感じております。また、講座に対する評価も肯定的で、受講生の皆さんから高い満足度を得られたことに喜びを感じています。
この講座を機に、自分の強みを活かして事業を立ち上げる高校生が現れ、その報告を最近受けました。本講座は必ずしも事業立ち上げ自体を推奨するものではなく、起業家精神を育成したいと思って開講していたのですが、実際に起業につながるとは予想していなかったので、驚きました。それと同時に活き活きと行動されている姿に胸を打たれました。
この講座を通じて、受講生の皆さんが行動の重要性を実感してくれたなら、それ以上の喜びはありません。これからも中高生の皆さんが自身の夢を追い続け、その実現に向けて積極的に動くことができるよう、サポートしていきたいと思っています。」
おわりに
ジュニア講座参加者、法人会員を募集中
メタバース工学部は、今後も中高生を対象とした教育イベントや講座を無償で提供する予定である。これらはオンラインまたは対面で行われ、多くの方々が工学の魅力を実感できる環境を提供する予定である。さらに、リスキリング工学教育プログラムも継続的に実施する予定で、法人向けの会員募集も継続的に行っている。
メタバース工学部のプロジェクトに興味を持つ方は、ホームページから各種情報をご確認いただきたい。我々は引き続き工学の多面的な魅力を広め、大多数の人々がその魅力を直接体験できる状況を作り出すことを目指している。我々の取り組みへの理解と支援、そして各教育イベントへの参加や周囲の人々への情報共有など、皆さまからの協力を賜われると幸いである。
謝辞
本稿の執筆にあたり、同大学院工学系研究科脇原徹教授、齊藤英治教授、大牧信介学術専門職員、東京大学情報基盤センター雨宮智浩教授にご協力をいただいた。心より感謝申し上げる。
参考文献
(1)プレスリリース「メタバース工学部」設立のお知らせ,東京大学工学部/工学系研究科,
https://www.t.u-tokyo.ac.jp/press/pr2022-07-21-001 (参照日2023年6月8日)
(2) メタバース工学部の概要,東京大学工学部/工学系研究科,
https://www.t.u-tokyo.ac.jp/meta-school-info (参照日2023年6月8日)
(3)東京大学メタバース工学部ホームページ,東京大学メタバース工学部
https://www.meta-school.t.u-tokyo.ac.jp/ (参照日2023年6月8日)
(4)東京大学バーチャルリアリティ教育研究センターホームページ,東京大学バーチャルリアリティ教育研究センター
https://vr.u-tokyo.ac.jp/ (参照日2023年6月8日)
(5)メタバースを作ろう,東京大学メタバース工学部
https://www.meta-school.t.u-tokyo.ac.jp/junior/22a13/ (参照日2023年6月8日)
(6)雨宮智浩,メタバースの教育現場への利活用,電子情報通信学会誌,Vol.106, No.8(2023),印刷中
(7)起業入門~困っていることを解決しよう~,東京大学メタバース工学部
https://www.meta-school.t.u-tokyo.ac.jp/junior/22a12/ (参照日2023年6月8日)
吉田 塁
◎東京大学 大学院工学系研究科 准教授
◎専門:教育工学、アクティブラーニング、オンライン学習、ファカルティ・ディベロップメント
キーワード:トピックス メタバースの活用