日本はものづくりで勝てないのか!?
第7回 幕末・明治の教育への思い
前回までは、鍋島・小栗・大隈ら“個人”の業績に焦点を当ててきた。幕末から明治にかけて、社会制度のみならず、教育制度も大きく変革されたがその際、誰が舵を取り、何を変革し、いかに現在に繋げたのかをたどってみたい。
幕府による昌平坂学問所·蕃書調所
昌平坂学問所「昌平黌」は寛政二(1790)年、神田湯島、現在のお茶の水駅前にある東京医科歯科大学付近に設立された。江戸幕府直轄の儒教を中心とした教学機関であった。だが儒教のローテクを教えているふりをして、実際は最新のハイテクを教えていたのである。
幕末の難局を支えたのは、井伊直弼亡き後の小栗らを筆頭とする優秀な勘定方(今の財務官僚)や川路聖謨・榎本武揚らのテクノクラートらである。彼らを技術的・学術的に支えたのは、昌平黌の学者らであった。例えば、西洋式大砲技術の高島秋帆、韮山の反射炉や江戸湾に砲台(台場)を築いた江川英龍、小栗の片腕である数学者の小野友五郎、蕃書調所の教授となった津和野藩の西周らである。西はイギリス議会など欧州の政治システムを慶喜や幕閣に説いた。維新後には現在の日本学士院の会長や獨協学園の初代校長を務めている。致遠館で大隈と一緒にフルベッキに学んだ加藤弘之は「蕃書調所」の後身である東京大学の初代総長となっている。幕末・維新の革新的な実務を担ったのは、蕃書調所で学んだ旗本直参と譜代の旧幕臣たちと言ってもよく、実数ではむしろ薩摩や長州を圧倒していた。ここに結集した俊英たちはその多くが新政府に請われて太政官政府(明治政府)に移り、その後の日本を動かしたのである。
幕末の技術教育を引き継いだ工部大学校
山尾庸三は萩藩出身で、若いときは攘夷派で英国公使館焼き討ち事件に参加した。しかし藩命により欧州に密航後、イギリスで造船技術を学び、開国派に転向した。新政府では工業の振興のため、明治十(1877)年に工学寮や工部大学校を設立し、「工学の父」とも呼ばれるようになっ
た(1)~(3)。キャンパスは現在の文部科学省のある虎ノ門(江戸時代の日向内藤家上屋敷跡)に設置された(図1)。しかし、関東大震災によって校舎が倒壊してしまい、その跡地に文部省が置かれることになった。工部大学校が東京大学の工科大学になる明治十八(1885)年までの12年間に入学者は合計493名で、そのうち卒業生は211名であり、学生は日本の将来を担うとの意識も高かった。イギリス人の教師たちも「日本の学生はイギリスの学生より良く勉強する」と評しているほどであった。
図1 虎ノ門に設置された工部大学校
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