日本はものづくりで勝てないのか!?
第6回 大隈重信の思い
理系藩士でもあった政治家・大隈
大隈重信(図1右端)は、天保九年(1838年)に佐賀藩の四百石取りの上士(上級武士)の長男として生まれた。大隈家は代々砲術家として佐賀・鍋島家に仕えていた。父・信保も藩命で長崎に警護のために赴任していた。大隈は、家業とも言える砲術にとって重要な数学(算術)の訓練を受け、さらに、佐賀藩の開明派のエンジニア藩主・鍋島直正のもとで薫陶を受けた。また米国の宣教師であり機械工学のエンジニアであったフルベッキに学び、若い時には理系の学問やエンジニアの素養を育んでいた。そのため、数字に強くなり、理系藩士としての道を歩んできた。
明治になってからも、政府高官たちがフルベッキの屋敷に集まり国防に関する秘密会議を開催、当然ここにフルベッキの通訳として大隈がいる。大隈は西洋の知識を吸収するとともに、数学的な才能を活かし新政府では次第に国家最高機密の会議に加わるようになった。下士(足軽)の出で算術や漢文ができなかった伊藤博文や山県有朋たちよりも断然格上の存在となり、参議(天皇の側近として政治をつかさどる職)となった。明治四年(1871年)、伊藤や五代の協力を得て藩札を廃止し、10進法に基づく「圓」を制定し新貨条例を施行した(1)~(3)。両から円の誕生、大隈33歳のときである。圧巻は明治五年(1872年)以降の活躍である。この前年より岩倉・大久保・伊藤らが米欧を視察し、その外遊中の留守政府は大隈らに任されていた。その施策を列挙すると、土地制度改革・税制改革・陸軍海軍の設立・義務教育制の実施・人身売買禁止令・太陽暦の採用・国立第一銀行の設立・徴兵制公布・四民平等制の実施・断髪令・郵便制度の改革・電信の開始・ガス灯の設置など…である。また、今でこそデータサイエンスなど話題になっているが、統計院を設置した発想は卓越している。世に「文明開化」と呼ばれる主要な事業を、たった一年余の間で計画し実行に移したのである。一人の力で政治が動く訳ではないが、政府の中心にいた大隈の実行力は驚くべきものである。
図1 直正像と大隈重信(右端)
新橋・横浜間の鉄道開通
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