特集 新技術の安全・安心はいかにして確保されるべきか
技術と法律の望ましい関係を目指して
はじめに
AI時代における技術者の起こした不祥事の意味
最近は、IoT、AIなどの文字をメディアで目にすることのない日はないといってもよい。自動化・無人化の波はあらゆるところに押し寄せている。
AIが社会生活のさまざまな場面に浸透することにより、人が直接に関与しないところで事故が起きることもあるだろう。その場合の責任は誰がとるのかという問題も議論されている。技術の進歩に法律が追い付いていないのではないかという批判を聞くこともある。
しかし、他方では、近年は、検査データの改ざん、リコール隠しのような話題が世間を騒がせている。これらは、直接的に技術の安全性を脅かす可能性があるから、事件が発覚すると、第三者委員会が組織され、原因調査が行われる。もっとも、多くの場合、調査の結論は、順法意識の低下とか、社内教育の不徹底というような、ある意味で常識的なものであることが多い。その結果、事件の背後にある集団心理的な側面まで踏み込んだ調査は少ないように思われる。
筆者は、法工学という、いまだ生成途上にある分野における活動を通じて、AIなどの新技術をめぐる議論においても、品質偽装のような不祥事においても、技術と法律の関係、具体的には、技術者の法律に対する態度又は期待に問題があるのではないかと感じている。そこで、本稿では、本特集の全体像を俯瞰しつつ、技術と法律の望ましい関係について、一つの考え方を提示したい。
東日本大震災の教訓
技術者は東日本大震災から何を学んだのか
東日本大震災から技術者が何を学ぶべきかという問題意識に基づき、日本機械学会は、福島原発事故の教訓から学ぶ工学の原点と社会的使命検討委員会〔委員長:柘植綾夫(日本工学会会長、当時)〕を組織して検討を重ね、その成果は、「福島原発事故の教訓から学ぶ工学の原点と社会的使命~安全・安心社会構築に向けて~」と題する報告書にまとめられ、2013年6月に公表された。筆者も、その第1章の執筆を担当し、福島原発事故の背後にある、技術者の安全に対する考え方、さらには、安全に対する国民性にも言及して、我が国の取り組むべき課題を提示した。この報告書は、日本機械学会のウェブサイトからダウンロードして読むことができる(1)。
しかし、残念ながら、この報告書が広く読まれているとはいえない。そして、筆者の指摘した、我が国の国民性に由来するとも思われる安全文化の問題点は、依然として根強く残っているように思われる。そこで、筆者の問題意識をあらためて述べておきたい。
リスクと安全
ノーリスク文化の危険性
安全とは何か、とあらためて問われると、一般の人は回答に窮するだろう。しかし、国際的に受け入れられた「安全」の定義があり、それは、「受け入れ不可能なリスクがないこと」である。そこで、本特集の別稿(2)において論じられるところと重複する点もあるが、最初に、リスクと安全の関係を整理しておきたい。
ここで重要なことは、「受け入れ不可能なリスクがないこと」を裏返すと、受け入れ可能なリスクが存在するということである。しかし、我が国では、リスクに対する市民の理解が十分ではない。したがって、リスクを受け入れ可能なリスクと、受け入れ不可能なリスクに区分すること自体を一般市民は受け入れようとしない。そのために、安全とノーリスクの信念が固く結びついている。筆者は、この点に我が国の安全文化の最大の問題点があると考えている。
「リスク」(risk)は日本語にしにくいと言われている。ある英英辞典によると、“risk”は“the possibility of harm or loss”と定義されている。これを直訳すると、「危害又は損失の可能性」ということになる。
ここで、「危害又は損失の可能性」について、それが受け入れ可能なのか、受け入れ不可能なのかを判断しようとすれば、厳密な定量化はできないとしても、少なくとも、リスクの大小関係を判定する基準が必要である。そこで、「リスクは損害発生の確率と損害の大きさの積である」というリスクの定義が一般的になり、発生確率と損害の甚大さによってリスクを評価することが広く知られてきた。
この定義の下でリスクを評価するには、発生の確率と損害の大きさを知る必要がある。これら二つの要素のうち、確率の方は数学的な概念であるから、正確に定量化できないまでも、ある程度、数値的な把握が可能である。これに対して、損害の大きさの方は、金銭的に評価できる場合には数値的な評価が可能であるが、必ずしも、損害を数値的に把握できるとは限らない。
もっとも、労働災害における損害賠償額の算定などでは、労災保険の身体障害等級によって評価することが一般的に行われている。したがって、労働安全衛生法に基づく評価を行うような場合には、この等級を介して、損害の大きさを金額という数値で評価できることになる。
このように言うと、人の死亡や人身損害を金銭に換算することに対する心情的な反発が予想される。そして、そのような心情的反発が、一切のリスクを許容しない、ノーリスク文化につながっている。
しかし、安全が「受け入れ不可能なリスクがないこと」と定義されている理由は、受け入れ可能なリスクの存在を認めることが、技術の健全な発展を可能にし、社会全体が新技術の恩恵を受けるためには不可欠な条件だからである。リスクの存在を否定すると、リスクが受け入れ可能かどうかを議論する余地がなくなる。そうすると、新技術を世の中に出そうとする技術者の側としては、リスクを無視して、「リスクはない」と断言するほかはなくなる。その結果、リスクについての議論がなされないままに、危険な新技術が世の中に出て行ってしまう可能性が残るのである。これが、ノーリスク文化の危険性である。
安全と安心
安全と安心の違いは量的なものではない
我が国にノーリスク文化が存在するといっても、世界全体を見渡せば、飛行機が墜落することもある。近年、国内で墜落事故がないからといっても、墜落のリスクは存在する。また、Googleの検索で「化学プラント 事故 死亡」と検索語を入力すると多数の事故の記事が見つかる。2012年12月には、中央高速道の笹子トンネルで天井が崩落して多数の方が亡くなられた。私たちのまわりにはこのような危険が存在する。
しかし、墜落が怖いから飛行機には乗らないという信条を貫いている人は少ない。私たちは、化学プラントで作られる農薬やプラスチックの恩恵をこうむっているし、高速道路を利用して移動することもある。事故が起きても、化学プラントを全廃すべきであるとか、高速道路からトンネルをなくすべきであるというような意見は出てこない。
新聞などでさまざまな事故の報道がなされるが、個別の事故の原因は手抜き工事であったり、材料の不良であったりする。安全手順を無視した作業が事故の原因になることもある。このような個別の原因が明らかになったと報道されると、技術そのものの危険性は認識されず、事故の原因が不心得な人に帰されて、市民も、技術者も安心してしまう。
ところで、ここで、「安心」という言葉を使ったが、安全と安心は何が違うのだろうか。安全は英語になるが、安心は英語にならないといわれることもある。もっとも、和英辞典で「安心」を引いてみたら、副見出しとして「信頼感」とか、「心の平静」、「安堵」などの語が挙がっていた。したがって、「安全」と「安心」は、いわばセットのように「安全・安心」といわれるが、意味も、ニュアンスもかなり違うものである。
新技術に対する市民の不安に直面した際に技術者が陥りやすい誤りは、「安全」と「安心」は量的に違うと考えることである。前述した「安全」の定義の延長上で「安心」をとらえることにより、安全率を大きくとることによって事故の確率を下げれば、「安心」につながると考えてしまうのである。しかし、単に安全率を大きくとっても、市民はそのことの意味を正しく感じることはできないから、結局、「安心」にはつながらないのである。
安心とリスク・コミュニケーション
リスク・コミュニケーションの必要性
個人がリスクを主観的にとらえることはリスク認知と呼ばれ、近年、これを社会心理学的にとらえる研究が進んでいる。その結果、個人のリスク認知に影響を与える諸要因が明らかになってきている。例えば、低頻度の事柄を過大視し、高頻度の事柄は過小視すると言われている。また、自ら制御することのできない事柄や、自らが理解できない事柄は過大視するとも言われている(3)。
すでに述べたように、「安全」は受け入れ不可能なリスクがないことであり、「リスク」は、「損害発生の確率と損害の大きさの積である」とされている。そして、技術者の立場からすると、リスクの定義に含まれている、「損害発生の確率」と「損害の大きさ」をできる限り客観的にとらえて、客観的な議論をすることが、新技術の安全性を市民に訴えるために必要であると考えるだろう。
しかし、問題は、客観的な議論だけで、市民の納得を得られるかどうかである。市民は、客観的な議論による「説得」によって反論できなくなったとしても、「納得」はしていないかもしれない。
「説得」と「納得」の関係も、よく議論されるところである。広辞苑によると、「説得」とは、「よく話して納得させること」であり、「納得」とは、「なるほどと認めること」である。したがって、客観的な議論で相手を追い込んで反論できない状態にしても、相手が「なるほど」と思わない限り、「説得」は成功していないことになる。
前述のとおり、「安全」については国際的に認められている定義が存在する。これに対して、「安心」の方は、「信頼感」、「心の平静」、「安堵」というような、個人の内心の状態に関わることである。したがって、新技術を社会に受け入れてもらうための条件は、その新技術が安全であるという結論を論理的に証明することのみでは足りず、社会を、「安全」という結論を納得して受け入れる心理状態にすることである。したがって、「納得」という言葉がキーワードとなる。
社会の「納得」を得るためには、社会との間でのコミュニケーションが必要である。そして、このコミュニケーションは、新技術のリスクに関するコミュニケーションであるから、リスク・コミュニケーションである。すなわち、新技術を「安心して」社会に受け入れてもらうには、リスク・コミュニケーションが必要なのである(4)。
リスク・コミュニケーションの双方向性
発信のみでなく、対話が必要
リスク・コミュニケーションは「個人・集団・機関の間における情報や意見のやりとりの相互作用的過程であって、リスクの性質についての多様なメッセージと、その他の(厳密に言えばリスクについてとは限らない)リスク・メッセージやリスク・マネジメントのための法律や制度に対する、関心・意見・反応を表すメッセージとを含む」と定義されている(5)。この定義に見られるように、リスク・コミュニケーションは専門家から市民への一方向的なリスクの提示ではなく、市民のリスク認知を専門家が理解する過程も含んでいる。
すでに述べたとおり、個人のリスク認知には、低頻度の事柄や自ら制御することのできない事柄、自らが理解できない事柄を過大視する傾向がある。その結果、専門家が安全であると考えていても、一般の市民は不安を感じることになる。
したがって、市民の納得を得ようとするならば、安全性を訴える前に、市民の不安の原因を知る必要がある。不安の原因が分かれば、低頻度の事柄や自ら制御することのできない事柄、自らが理解できない事柄を過大視する傾向がある、という社会心理学の知見を応用して、身近で起きる事柄に例えて理解を促すこともできるようになる。
例えば、福島原発事故の直接の原因は、決して、一般市民の理解できないような複雑なことではないが、技術的な正確さを期するあまり、専門家は一般市民が理解できないような言葉で事故原因を語る傾向がある。そのために、一般市民はいまだに事故原因を理解できないままに、原子力発電所に対する不安感をぬぐえていない。仮に、あえて単純化して、「バッテリーを買いにホームセンターに走っているうちに時間との戦いに負けた」という程度にしてしまえば、一般市民も、「それはどういうことですか。」という正しい疑問を持つことができるだろう。これからの技術者には、そういう日常的なレベルから市民との対話を始めるスキルが必要である。例に挙げた福島原発事故の原因については、過度の単純化であるとの批判もあるだろうが、分からないこと、複雑なことはリスク認知において過大視されるから、専門家は、市民の感覚で分かるようにリスクの本質を説明する工夫をする努力をしなければならないだろう。
日本の安全文化
「お上」依存の安全文化の弊害
福島原発事故を調査した政府の調査委員会(畑村洋太郎委員長)による国際会議において、海外の専門家から日本の安全文化に対する批判が相次いだと報道された(6)。しかし、日本の技術者が安全に対して無頓着であるとか、安全を軽視しているということではないと思われる。
海外の専門家からの批判の中には、「事故はあり得ないと思うのではなく、あり得ると考えて対策すべきだ」として、電力会社は規制で求められる水準以上の安全対策をとるべきだと指摘したものもある。確かに、我が国では、安全について自ら考えることが行われにくく、法的規制による基準を満たせばよいという考え方が根強いといえる。しかし、これは電力会社に限ったことではないし、技術者に限ったことでもない。一般の市民が安全は「お上」から与えられるという感覚を持っているのである。
例えば、予防接種の問題がある。2013年に定期接種が始まった子宮頸がんワクチンは、開始直後に、マスコミの報道がきっかけになって、副作用を理由とする反対キャンペーンが始まった。そのために、政府は、接種勧奨を中止した。政府は、副作用の存在を示す信頼できるデータはないという情報を開示した上で、希望者のみに無償接種を行うことにした。
しかし、接種勧奨が中止されたことにより、接種希望者が激減した(7)。その後、副作用とされた症状と接種の因果関係が証明されなかったことを理由に、2022年4月から接種勧奨が再開された。しかし、このワクチンは、一定の年齢に達する前に接種することが効果の発現に必要だとされており、接種勧奨の中止期間中に多くの女性が接種の機会を失った。なお、諸外国の統計では、接種による子宮頸がん罹患率が大きく低下することが確かめられている(8)。したがって、接種の機会を失った女性は、高い罹患リスクにさらされていることになる。
接種勧奨が中止された際、反対キャンペーンのきっかけとなった報道を行ったマスコミは、副作用の有無をはっきりしないままに、個人に接種の可否の判断を委ねることは、政府として無責任であるとして、政府の対応を批判した。すなわち、政府は、接種勧奨を継続するか、接種をしないことを勧奨するかのいずれかに決めるべきであるというのである。
結果として、マスコミは、多くの女性を子宮頸がん罹患のリスクにさらしたことになる。しかし、ここで問題にしたいのは、政府は、子宮頸がんワクチンの安全性を否定するか、肯定するかを明らかにすべきであるという意見に対する反対が、当時、ほとんど見られなかったことである。子宮頸がんワクチンの効果を重視するか、副作用を重視するかは、結局、個人の自己決定権に属することであるから、政府が情報を開示した上で、接種するか否かを個人の判断に委ねたことは、当時の反対キャンペーンに対する対応としては妥当であった(9)。しかし、政府が、接種勧奨という、いわば「お墨付き」を中止した結果、多くの女性(厳密には、女性の保護者)が接種をしないことを選択したのである。
この例からも分かるとおり、我が国では、安全は政府によって与えられるという意識が強い。筆者は、これを「お上」依存の安全文化と呼んでいる。そして、福島原発事故は、「お上」依存の安全文化の弊害が悲劇的な形で発現したものであり、筆者は、そのことが、海外の専門家からの日本の安全文化に対する批判につながったと考えている。
業務上過失致死事件について
再発防止と被害者遺族の処罰感情
「お上」依存の安全文化は、事故が起きた場合の責任追及、特に、業務上過失致死傷罪による刑事責任の追及に現れている。死亡事故が起きた場合に、「犯人」が起訴され、有罪にならなければ、被害者遺族は納得しない。したがって、警察、検察は、手抜き工事や安全手順を無視した作業をした者を探し出すことに努力を集中する。事故は、「不心得者」という特殊な原因によって発生したと解釈されるのである。
このような傾向は、潜在的なリスクが顕在化して事故が起きるという論理を否定する結果となりやすい。その結果、不心得者をさがして処罰することが必要になる。そして、事故後に誰かが業務上過失致死傷罪で処罰されることが一般市民やマスコミの関心の対象となると同時に、その誰かを「不心得者」と名指しすることで事故処理は一件落着となるのである。このように、「お上」依存の安全文化は、事故の再発防止に向けた努力を軽視する結果となる。
筆者らは、日本機械学会法工学専門会議の下に、業務上過失致死傷事件裁判例研究会を設置し、22件の裁判例について、技術者と弁護士が協力して、事故に至る経緯の技術的検証、判決に至る法的論理の検証、刑事罰が再発防止効果を有するかどうかについての検証を行っている。以下、一例として、焼津沖日航機急降下事故を紹介する。
この事故は、羽田から離陸したA機(907便)と、成田に着陸しようとしていたB機(958便)が焼津市付近上空で接近しつつあった際に、A機を上昇させ、B機を下降させて接近を回避させる意図であったにもかかわらず、便名を呼び間違えて、「907便下降」、「958便上昇」と指示したことについて、管制官が刑事上の過失責任を問われた事件である。事故の直接の原因は、管制官の指示と異なる(管制官の意図と同じ)指示を航空機衝突防止装置が発し、B機の機長は衝突防止装置の指示に従い、A機の機長は管制官の指示に従ったために、A機とB機が接近し、A機の機長が衝突を回避するために行った急降下により、A機の乗客が負傷したというものである。
一審の東京地裁は、便名を反対にしても、両機がその指示に従っていれば事故にはならなかったとして、便名を呼び間違えた行為そのものは、人の傷害につながるような危険な行為に該当しないとして無罪を言い渡した(10)。しかし、検察官の控訴による控訴審の東京高裁は、便名を呼び間違えれば、航空機衝突防止装置が発する指示との間に齟齬を生じて事故が起きることは予見可能であったとして、有罪判決を下した(11)。管制官は最高裁に上告したが、上告棄却となって有罪が確定した(12)。ただし、上告審決定には、5名の判事中の判事1名により、一審判決の無罪を支持する趣旨の反対意見が付されている。他方では、別の判事1名により、管制官を厳しく批判する補足意見も出されている。
本件事故の調査報告書(13)において、管制官の指示と航空機衝突防止装置の指示が食い違った場合には、航空機衝突防止装置の指示を優先するという原則を明確化することが勧告されている。ヒューマンエラーの発生は避けがたいという前提に立てば、明確なルールが存在しなかったことが本件事故の真の原因であると言える。
重大事故があると、事故調査が行われ、事故調査報告書が作成、公表される(14)。報告書の冒頭には、通常、「原因を究明し、事故の防止及び被害の軽減に寄与することを目的として行われたものであり、事故の責任を問うために行われたものではない。」と明記される。
しかし、刑罰の目的には、刑罰の賦課を予告することによって、一般的に犯罪を抑止することが含まれている(15)。したがって、事故調査と刑事裁判とは、目的を異にするものではない。具体的な事件について技術者と弁護士が共同して検討することによって、技術者の考える再発防止策と、刑法上の過失論とを整合させることが必要である。そうした努力は、究極的に、「お上」依存の安全文化からの脱却につながることが期待される。
検査データ改ざんなどの不祥事の背景
「お上」依存の安全文化の裏返し
ここ数年、検査データの改ざんなどの不祥事が報道されることが多い。出荷される製品が法律や、契約で決まっている特性値を有していることを確認するための検査データを改ざんする行為は、表面的には、「お上」の決めたルールに従っていればよいとする、「お上」依存の安全文化とは、相反するようにも見える。しかし、自ら、安全の定義に立ち返って、安全性を確認しないという意味では、その背後に、共通の意識があると思われる。
検査データ改ざんなどの不祥事が起きると、不祥事を起こした企業は社外の第三者を含めた調査委員会を設置して、その原因を調査する。その結果は、調査報告書にまとめられ、社外にも開示されることが多い。
多くの場合、調査の結論は、順法意識の低下とか、社内教育の不徹底というような、ある意味で常識的なものであることが多い。また、公益通報者保護制度が再発防止に役立つことも期待されている(16)。
しかし、多くの事件の背景には、長期間にわたって形成されてきた集団心理的な側面があるように思える。筆者の推測するところ、そうした集団心理的な側面と、「お上」依存の安全文化には、共通の根がある。それは、過剰品質とでも呼ぶべきものであったり、技術的根拠に乏しい規制であったりする。
筆者は、「過剰品質」とは、製造物の性能や安全性を確保するために必要な水準を超える品質を法律上、契約上の要求とすることであると解釈している。なお、筆者は、「品質」という用語を広義に用いている。例えば、機械の定期点検の間隔を必要以上に短く定めることなども、「過剰品質」に含めることにする。
このような過剰品質が存在することは、製造業者と顧客の間で交わされる「取引基本契約書」の条項から窺い知ることができる。一例として、筆者が監修に関与したある標準約款に、「特別採用」という条文がある。それは、次のようなものである。
第〇条(特別採用)
発注者の検査の結果、不合格となった目的物件であっても発注者が支障なしと認め、発注者と請負者の協議によりあらためて契約金額を決定したときは、発注者はこれを引き取ることができる。この場合、請負者は契約の本旨に従った債務を履行したものと扱われる。 |
この条文は、契約書に添付された仕様書に従って検査を行い、検査に不合格になったものであっても、発注者の裁量によってこれを受け取って代金を支払うという意味である。「あらためて契約金額を決定」と記載しているのは、「値引きをすれば、受け取って金を払うよ。」という意味である。この条文があるために、発注者は、値引き交渉が可能となり、請負者は、性能未達品を「オシャカ」にしなくて済むわけである。
この説明を読んでも、多くの読者には違和感はないのではなかろうか。しかし、よく考えると、おかしな話である。
本来、仕様書には、発注者において契約の目的を達成するために必要な仕様が記載されているはずである。したがって、仕様書に記載された性能を発揮できないものは、当然、不合格品として受領を拒否しなければならないはずである。
それにもかかわらず、発注者がこれを引き取って、代金を支払うということは、もともと、仕様書に記載されている性能が「過剰品質」であった可能性が高いのである。つまり、仕様書の記載は、いわゆる「サバを読んだ」記載になっているのである。したがって、仕様書に記載された性能は、何としても達成しなければならないものではないのである。
上掲の条文例では、発注者が検査を行うことになっている。しかし、請負者が出荷前検査を行って検査証明書を添付して出荷するという契約もある。そして、仕様書に記載された性能が技術的には必須のものではないとすると、検査をせずに、あるいは、検査に不合格であっても、合格の検査証明書を添付さえすればよいだろうという誘惑にかられ、不正を働くことになることも容易に推測できる。そのような不正が常態化しても、もともと、仕様書の記載が過剰品質を要求しているのだから、注文者において問題は生じないことになる。
いかなる理由があろうとも、不正は不正である。これは正論である。しかし、不正の背後にある過剰品質の問題を放置すれば、不正は繰り返されることになる。したがって、過剰品質という悪しき商習慣を是正することが必要である。過剰品質は、結局、安全軽視に他ならないのである。
過剰品質と同様の問題に、技術的根拠に乏しい規制がある。前述した、業務上過失致死傷事件裁判例研究会でとりあげた、ジェットコースター脱輪事故を例として、この点を説明しよう。
この事故では、車軸が疲労破壊して脱輪したために、乗客1名が死亡し、乗客11名が傷害を負った。ジェットコースターを運用していた会社の役員と施設営業部長が業務上過失致死傷などで起訴され、有罪になった(17)。
この事故で過失とされた行為は、建築基準法に基づいて定められた検査期間内にジェットコースターの検査を行なわずに、営業を継続した行為である。検査期間は2007年3月18日に満了しており、事故が起きたのは同年5月5日であるから、検査期間内に検査を行っていれば、事故を防止できた可能性はある。また、同年2月から3月にかけて、虚偽の検査報告書を提出するなど、悪質な点もある。したがって、起訴された2人が有罪という結論に納得する者がほとんどだろう。
しかし、技術的には、車軸は疲労限度以下で使用されるべきものであったから、設計上、疲労寿命は考慮されていない。したがって、本来、定められた期間内に検査を行わないことと疲労破壊の間には因果関係がないはずであった。当然、検査期間も、疲労とは無関係に定められていた。すなわち、現実に起きた結果との関係では、定められた検査期間は、技術的根拠に乏しいものであった(18)。
それにもかかわらず、この事故の刑事事件の結論に納得してしまうのは、「お上」の規制が安全を担保しているという、抜きがたい思い込みが社会全体に根付いているからであろう。しかし、規制に合理性がないならば、規制違反を理由として事故の責任を追及しても、再発防止策としては有効ではないことになる。
技術と法律の望ましい関係
技術者の発想で法律を作る
自動車の自動運転や、AIを応用したロボットを開発している技術者から、法規制が遅れているから開発の方向性が定まらない、というような意見を聞くこともある。これは、本稿で述べた、「お上」依存の安全文化を反映している。
しかし、例えば、製造物責任法は、「欠陥」を「特性、その通常予見される使用形態、・・・引き渡した時期その他の・・・事情を考慮して、当該製造物が通常有すべき安全性を欠いていること」と定義している(19)。この定義は、「通常有すべき安全性」は、社会通念によって定まることを明らかにしている。
筆者らは、日本機械学会2018年度年次大会(関西大学)の市民フォーラムにおいて、近未来の電動車いすシェアリングシステムを想定して、無人で保管場所に回送される電動車いすによる事故の責任を扱った模擬裁判を実施した。元裁判官などで構成された裁判所は、無人運転の電動車いすの危険性が歩行者などに周知されていなかったことを理由に、欠陥を認める判決を下した。この判決は、リスクを社会に周知させる責任が技術者にあることを改めて明らかにしたものと評価できる。
技術者は、自らが開発している技術について、最もよく知り得る立場にある。したがって、その技術を社会に受け入れてもらおうとするならば、リスクを隠すのではなく、正直にリスクを社会に知らせて、そのリスクに対して社会がどう反応するのかを確かめる必要がある。それが、リスク・コミュニケーションである。
最終的に、リスクを受け入れ可能であると判断するか、受け入れ不可能であると判断するかは、社会の側であって、技術者ではない。技術者によるリスク・コミュニケーションを通じて、何が受け入れ可能なリスクであり、何が受け入れ不可能なリスクであるかという点についての社会的合意が形成されれば、「お上」の役割は、それをくみとって法令を制定することになる。そして、受け入れ可能なリスクによって生じた損害の被害者の救済のためには、保険制度の活用が望ましい(20)。保険制度の構築にも技術者は貢献できるはずである。
なお、新技術の社会実装が法規制によって阻害されているという場合もあり得る。例えば、現在では普及している、電動アシスト付き自転車や、電動車いすは、道路交通法関連法令の改正がなければ実用化できなかったはずである。
自動車の自動運転の開発に関与している技術者がどの程度の問題意識をもって道路交通法を検討しているのか、筆者は知らないが、一般道において自動運転を実用化するためには、関連法令の大幅な見直しが必要になるだろう。道路交通法は、人による運転を当然の前提として、交通取締の根拠法令という性格が強いように思われる。そのために、自動運転の設計指針として読んでみると、随所にあいまいな表現が出てくる。
例えば、道路交通法施行令は、黄信号の意味について、赤信号と同様に、「車両等は、停止位置を超えて進行してはならないこと。」と規定した上で、赤信号と異なる点として、「ただし、黄色の灯火が表示された時において当該停止位置に近接しているため安全に停止することができない場合を除く。」と規定している。この規定において、「近接しているため安全に停止することができない場合」の解釈は常識に任されている。
他方で、道路交通法24条は、緊急時を除いて、急停止、急減速になるような「急ブレーキをかけてはならない。」と規定している。人による運転を前提としているから、「急ブレーキ」に関する定義はなく、その解釈は、常識に任されている。また、黄信号について引用した、「安全に停止することができない場合」と「急ブレーキ」の関係も明らかではない。
一般道における自動運転を実用化しようとすると、前方のカメラが黄色信号を認識した際に、どのような条件があれば停止し、どのような条件があれば、そのまま進行する、という点について、数値的な表現が必要になる。そのためには、「安全に停止することができない場合」の意味と、「急ブレーキ」の意味を解釈して、それを数値的に表現しなければならない。
人が運転していることを前提にした取締法規として考えると、具体的な状況における人の判断の是非を事後的に評価するから、上述の規定の意味も常識に従って解釈すれば足り、これらを厳密に解釈する必要は生じない。しかし、自動運転の設計指針とするには、それでは困るのである。
この例からも分かるとおり、新技術に関する規制は、「お上」に考えてもらうのではなく、技術者の側から、安全のためにいかなる規制が必要か、いかなる規制が望ましいかを提案することが必要になる。
このような意味で、法令を、設計に対する制約条件としてとらえるのではなく、むしろ、設計すべき対象であるとしてとらえるという、発想の転換が必要なのである。筆者らが提唱している「法工学」は、そういう意味で、「法」を対象とする工学であって、「法」に奉仕する工学という意味ではないのである。
参考資料
(1) 福島原発事故の教訓から学ぶ工学の原点と社会的使命 ~安全・安心社会構築に向けて~, 日本機械学会, https://www.jsme.or.jp/shinsai3.11/wg4report.pdf(参照日2022年4月2日)
(2) 向殿正男, 機械技術者のリスク管理, 日本機械学会誌, Vol. 125, No. 1243(本号), pp. 12-16.
(3) 中谷内一也, リスクの社会心理学(2012), p.56.
(4) 近藤惠嗣, 新技術活用のための法工学(2016), pp. 153-155.
(5) 中谷内一也, リスクの社会心理学(2012), p.201.
(6) 日本経済新聞, 2012年2月26日.
(7) HPVワクチン接種率の激減による 2000年度生まれの子宮頸がん検診細胞診異常率の上昇, 大阪大学, https://resou.osaka-u.ac.jp/ja/research/2021/20211220_1#:~:text=日本では, 2013年6,歳に達しました.(参照日 2022年4月2日)
(8) 子宮頸がんと HPV ワクチンに関する最新の知識, 日本産科婦人科学会, https://www.jsog.or.jp/uploads/files/jsogpolicy/HPV_Part1_3.1.pdf(参照日 2022年4月2日)
(9) 近藤惠嗣, 新技術活用のための法工学(2016), p. 114.
(10)東京地裁, 平成18年3月20日判決.
(11)東京高裁, 平成20年4月1日判決.
(12)最高裁, 平成22年10月26日決定.
(13)航空・鉄道事故調査委員会, 航空事故調査報告書, 2002-5.
(14) 佐藤健宗, 事故調査の現状と問題点, 日本機械学会誌, Vol. 125, No. 1243(本号), pp. 25-27.
(15)山口厚, 刑法(2005), p.4.
(16)高野一彦, 公益通報者保護制度の発展系譜と新たな課題, 日本機械学会誌, Vol. 125, No. 1243(本号), pp. 28-31.
(17)大阪地裁, 平成21年9月28日判決.
(18)日本機械学会, 法工学入門(2014), pp. 54-57.
(19)岡本満喜子, 自動運転の高度化と民事責任の変容, 日本機械学会誌, Vol. 125, No. 1243(本号), pp. 17-20.
(20)坂下秀行, 保険制度によるリスクの分散, 日本機械学会誌, Vol. 125, No. 1243(本号), pp. 21-24.
<正員>
近藤 惠嗣
◎福田・近藤法律事務所 弁護士
◎専門:法工学、知的財産法、資源開発工学
キーワード:新技術の安全・安心はいかにして確保されるべきか