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2021/2 Vol.124

工部大学校の「機械学」教育機器(機械遺産第100号)

機構模型:差動歯車

年代未詳/真鍮、鉄、ガラス、木製台座/H310, W245, D235(mm)/東京大学総合研究博物館所蔵

工科大学もしくは工学部の備品番号「工キ學ニ一八五」の木札付。本模型の年代は未詳であるが、東京大学総合研究博物館には工部大学校を示すプレート付きのものを含め、近代的な機械学教育のために明治期以降に導入された機構模型が現存する。
上野則宏撮影/東京大学総合研究博物館写真提供/インターメディアテク展示・収蔵
[東京大学総合研究博物館]

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特集 日本のモノづくり再興Part2-日本機械学会の役割-

〈人材育成〉 機械系学部教育のあり方を考える

小澤 守(関西大学)

はじめに

問題点の提示

平成7年制定の科学技術基本法に基づいて、平成8年から始まった我が国の科学技術基本計画は現在、第5期が進行中である。科学技術偏重であったものが、人文科学に係る科学技術の振興やイノベーション創出を基本法に組み込み、[1]持続的な成長と地域社会の自律的発展、[2]国および国民の安全・安心の確保と豊かで質の高い生活の実現、[3]地球規模課題への対応と世界の発展への貢献、[4]知の資産の持続的創出、を基本的課題として挙げる一方で、科学技術における「基盤的な力」の弱体化、政府研究開発投資の伸びの停滞などを指摘している(1)

現状の機械技術を取り巻く環境に目をやれば、イノベーション、デジタル化が喧伝され、COVID-19の世界的蔓延を受けてテレワーク、リモート講義が華やかに取り上げられているが、実際には図1に示すように社会経済の基盤はモノづくり(2)であり、そのような社会を支えているのはエネルギー供給、各種消費財や生産財の製造・物流も含めた基盤技術、基盤インフラである事実が正当に伝えられていないように思う。

また近年、金属材料検査データの改竄、エアーバック大量リコール、完成車検査データ不正など機械工学に関わる不祥事が多数発覚した。本稿では、このような状況を踏まえ、さらに我が国における工学教育の歴史を概観したうえで、現状の機械工学教育の問題点やあり方について考えてみたい。

図1 我が国の主要先端製品の世界シェアと売上額(データはNEDO(2)による)

工学教育の濫觴から現在まで - 概観

明治期当初の工学教育はどう行われ、どのように繋がっていったのか

我が国で工学教育が初めて実施されたのは、機械工学では周知のWilliam Rankineの弟子であったHenry Dyerを都検(Principal of the Imperial College of Engineering)とする工部大学校(1873年創立)である。工部大学校は日本の伝統的技術者養成と西欧技術教育の空白を埋めるべく、設置されたものである。DyerはProfessional educationのみならずNon-professional educationの重要性を説き、「工学教育には理論の構築も大切だが、Real revolutionistsである前にgood and true menでなければならず、専門家主義が行き過ぎればprofessional selfishnessに陥りやすい。だから品性と教養を磨かなければならない」と説いた(3)。またJohn Stuart Blackie(4)の言葉を借りて“The original and proper sources of our knowledge are not books, but life, experience, personal thinking, feeling and acting.” (5)とも言っている。

この工部大学校が東京大学に吸収され、帝国大学工科大学(1888)となるに及んで、実践重視から学理重視教育に軸足が移されていった(6)。この傾向がその後の日本の工学教育に営々と引き継がれていったように思う。学理重視とはいいながら、西欧列強に飲み込まれないための富国強兵政策の例に見るように、海外技術の紹介、導入や海外企業との合弁などを通じてほとんどの近代技術が我が国に取り入れられた。機械そのものが導入されたのはもちろんのこと、メンテナンス、規格、規制制度、さらには大学教育システムまでもが導入された(7)(8)。これは明治期だけにとどまらず、第2次世界大戦後においても我が国の戦中の空白を埋めるべく、政府が率先して技術導入を推進した(9)図2は戦後1950年~1965年頃までの甲種技術導入の数を示している。戦後の一時期、国も企業も率先して技術導入に向かっていったことが明瞭である。火力発電、舶用エンジンなどの分野でも、多くの企業がGeneral Electric (GE)、Westinghouse (WH)、Combustion Engineering、Babcock & Wilcox、Foster Wheeler、Siemens、MAN、Sulzerなどから技術提携という名の技術導入を行っていた(10)。原発はGEからBWR、WHからはPWRの技術をターンキー方式で導入したのは周知の事実である。自ら立ち上がって考え行動する前に、まず目の前にある技術に飛びついたともいえる。これによって高性能のハード(構造)を製作する技術は我が物にし、大きく経済発展を遂げたが、自ら発想したコト(機能)までも含んだモノとコトにはなりえなかったのではないだろうか。後述する詳細に細分化された旧制度の工学教育がそのような状況に適していたのかもしれない。

図2 技術導入件数の推移(データは外国技術導入要覧(9)による)

大学設置基準大綱化以前の大学教育

工部大学校から1991年までのカリキュラム概観

Henry Dyerが策定した工部大学校のカリキュラム(11)は全体で6年間の教育課程からなり、最初の4年間を通じて、半年は座学が中心で、残りの半年は学生の選択に応じて実習が組み込まれていた。最後の2年間は実際の仕事を通じての実習に費やされていた。現在の大学では学理が基本で実践は付随的であるが、工部大学校では実践が基本で付随的に学理があったともいえる。最初の2年間には科学的素養を習得する共通教育期間とされ、専門コースとしての機械工学では、幾何学、解析学などの数学分野、自然科学 (Natural Philosophy)の枠組みで、運動学、力学、静水力学、流体力学、熱力学、電磁気学など、学生によって選択された機械工学関連科目(例えば蒸気原動機、ガス機関など)、物理実験(蒸気・ガスの特性、材料強度、熱力学の法則などに関する)、製図、工場実習などが配置されていた。

当初はDyerに代表される英国流の教育システムであったが、文部省主導の大学制度が拡充するにつれ、19世紀に化学分野を発端として高度に科学技術が発展したドイツの影響が強くなっていった。このことが、工学部機械工学科の多くの学生が第2外国語としてドイツ語を学ぶようになった背景だろう。

産業技術の進展とともに大学制度も変化し、科目の分化も進行していった。例えば大阪帝国大学の1935年の機械工学科のカリキュラム(12)をみると、共通科目として、数学(第一、第二)、実用数学、力学(第一、第二)、一般物理学、物理学測定法、数理物理学、ドイツ語、工場建設、工業経済、工場管理法、水力学、水力原動機及ポンプ、熱・熱力学(第一、第二)、機械実験工学、機構学、機械力学、弾性工学(第一、第二)、構造力学、塑性学、蒸気原動機(第一、第二)、内燃機関、機械設計学(第一、第二)、機械工作法(第一、第二)、鉄道車両、自動車、舶用機関、暖房及冷房、冷凍、起重機、紡績機、気体圧縮機と言った科目が並んでいる。

昭和16年版(13)になると科目群が若干修正され、新たに熱移動学[5]、電気工学[8]、電気工学実験[5]、機械工学実験(第一、第二、計[12])、機械設計製図(第一、第二、計[40])が従来科目から分離あるいは追記され、金属加工法第一[8]、金属溶接法[5]、電力工学[6]、航空工学概論[8]などが選択科目として新たに追加されている(角括弧内数字は単位数)。必修科目の材料力学は第一と第二で21単位であるが、設計製図は第一と第二の合計40単位、水力原動機及ポンプ11単位、蒸気原動機第一と第二で16単位、内燃機関8単位、機械工作実習4単位などで、依然として実務に繋がる科目群にかなりの重点が置かれていた。なお卒業するためには設計製図、実験、演習を含む必修科目170単位に合格しているのが前提であった。

この学生便覧には当時の大学令も記載されており、その中で「大学ハ国家ニ須要ナル学術ノ理論及応用ヲ教授シ並其ノ蘊奥ヲ攻究スルヲ以テ目的トシ兼テ人格ノ陶冶及国家思想ノ涵養ニ留意スヘキモノトス」とされていた(14)。ここで言う「人格の陶冶」に該当する科目は大学には組み込まれていない。旧制度では一般教養は旧制高等学校の3年に任されており、大学は3年の専門教育課程であったことによる。

第二次世界大戦後、大学制度が大きく変更され、旧制高校が担っていた一般教養的カリキュラムは大学の1年半~2年間の大学教養部に移管、残りの2年半~2年で専門科目群を教授することになった。

戦後から17年経過した1962年のカリキュラム(15)をみると、専門科目中の必修105単位、選択12単位以上、合計117単位以上、それに1~2年次の一般教養科目が卒業所要単位となる。この当時の一般教養単位は1968年入学の筆者と大きくは差がないとみて、人文科目[12]、社会科学[12]、自然科学[36]、英語[8]、ドイツ語[8]、体育[4]の合計80単位を加えると、卒業所要単位は197単位程度となる。必修科目に大きな変化はないが、専門科目の単位数が大きく減少している。この単位数の減少は時間数の減少とみなして計算すると、170×2/3=113単位となり、先に述べた117単位にほぼ一致する。

大学設置基準の大綱化以後の状況

教養部廃止と現在のカリキュラム概観

1991年に大学設置基準が改訂され、一般教育と専門教育の区分および人文、社会、自然、外国語、体育といった一般教育の科目区分が廃止された。これがいわゆる大学教育課程の大綱化である。これによって大学は学部教育を自由に編成でき、その一方で教育研究活動について自己点検・評価が求められるようになった。工学分野における英語の拡大を受けて独・仏など第2外国語の衰退、卒業所要単位数の減少(124~136単位程度)、そして何より重要なことは多くの国立大学において教養部、専門学部の体制が崩壊して、新入生は一般教養的科目と同時に専門教育課程の科目も受講するようになったことである(16)。かつて旧制高校が担っていた一般教育を教養部として大学内に取り込んだ体制が崩壊したのである。かつての教養部教育課程がDyerや大学令のいう「人格の陶冶」にどの程度効果があったかどうか不明であるが、少なくとも経済学、社会学、政治学、社会思想史、国文学、芸術などと言った科目群に触れる機会が大幅に減少したのは間違いない。

大学大綱化後のカリキュラムとして令和2年度入学生用のカリキュラム(17)をみると、1年次に専門基礎として解析学、線形代数などの数学科目、力学、電磁気学、化学関連科目、物理実験、図学などが旧教養部のように配置されている。専門科目は2年次3年次を中心に配置され、材料力学、機械力学、流れ学、熱力学、制御工学などの4力学を中心とした基幹科目、それらを統合して学生自ら学ぶことをめざした演習や実験科目が必修として配置されている。また選択科目中には応用数学、流体力学、熱工学、設計工学、生産工学などが配置されているが、流体機械、蒸気原動機、運搬機械、船舶、航空、など現物に直接関係する科目は見当たらない。しかも卒業所要単位数は136単位に大きく減少している(語学、一般教養などで27単位、専門基礎26単位、専門科目83単位)。もちろん、卒業研究などが必修でそれを通じて実際を学ぶ機会もあるが、機械系の多くの研究室では実験研究が大きく減少し、コンピュータシミュレーションしか経験しないとしたら、企業で実現象や実物に遭遇したとき、学理と現実のギャップを容易に埋めることができるのだろうか。現状の教育課程は簡単には変えられないだろうが、少なくとも講義や研究などにおいて、学生が実現象や実物を展望できるような指導が必要と思う。

モノとコト、そしておわりに

大学設置の大綱化以降、大学院大学化など大学をめぐる状況は大きく変わった。その状況の中で、モノからコトへなどと言った標語のもとで、IT、IoT、AI、デジタル化などといった方向に大勢は突き進んでいるように思える。しかし現状、我が国で最も大きく稼いでいるのは図1に示したモノであり、製造技術そのものである。またAppleやFacebookではハード開発も盛んに行われているのは周知の事実である。新たなコトを成し遂げるには新たなモノが必要で、モノはコトを実現するための道具で、モノづくりをおろそかにしては少なくとも日本の生き残る道はない。モノはコトと一体であり、よく言われるモノに付加価値というよりもっと本質的な、情緒的に言えば魂の入ったモノづくりが必要なのである。大学教育のあり方を考えるうえで、決して忘れてはいけない側面ではないだろうか。

技術者養成は大学のみならず子供の頃から大学まで一貫して重要な因子であり、大学だけで成し遂げられるものでもない。Henry Dyerが言うように、日常の生活、初等中等教育、大学、企業など社会全体の中で次世代を担う技術者が養成されるのである。

『飛行機設計論』や『最後の30秒』で著名な山名正夫氏はかつて旧海軍航空技術廠の技術少佐として「初級技術士官心得(案)」(18)の作成をリードされ、その中でDyerと同様に「技術は人格の反映なり、人格を磨かざれば優秀なる技術の生かせざることを銘記すべし」と述べている。教養部という専門から隔離した場所がなくなり、文学に親しみ、社会の構造、動態に触れる機会が希薄になった大学で、専門科目の講義、演習、レポートに追われる学生に、一見役に立ちそうにもない分野の講義を聞き、文学や芸術に親しめなどと言ったところで、期待するような反応がかえってくるようにも思えない。しかし機械工学、さらには工学のあり方や将来展望は人と社会を抜きにしてはあり得ないし、現在の社会も技術もこれまでの数千年の営みの上に成り立っているのに間違いはなく、そのことを抜きにして我々の未来はないように思うのだが。さればと言って旧来の教育を復活したとしても真のイノベーションに繋がる「基盤的な力」の弱体化(弱体化というよりもともと弱体であった)問題は解決しない。構造をまねるのは比較的容易であるが、機能を構想することがむずかしいのは我が国の技術導入の実態をみれば容易に理解できる。ではどうするか?筆者はそれに対する適切な解答を持ち合わせていないが、自由な発想を尊重し、経済性に拘泥せず失敗を許容する社会であることが最低限必要な条件の一つではないだろうか。


参考文献

(1) 内閣府,科学技術基本計画,平成28年閣議決定

https://www8.cao.go.jp/cstp/kihonkeikaku/index5.html (閲覧日2020年9月28日).

(2) NEDO, 主要先端製品・部材の売上高と世界シェア(2016年),「日系企業のモノとサービス・ソフトウェアの国際競争ポジションに関する情報収集」,平成29年度成果報告書, (2019)

(3) 三好信浩,日本工業教育発達史の研究,風間書房, (2005) p.665.

(4) John Stuart Blackie, On Self-Culture, E. L. Kellogg & Co., New York, 1891, p.3.

(5) Henry Dyer, The Education of Engineers, in N. Miyoshi ed. The Collected Writing of Henry Dyer, Global Oriental, Folkestone, (2006) pp.125-183.

(6) 三好信浩,日本工業教育成立史の研究,風間書房, (2012) pp.333-406.

(7) 吉田光邦,日本技術史研究,学芸出版,(1961)

(8) 松本三和夫,船の科学技術革命と産業社会,同文館,(1995)

(9) 外国技術導入要覧,1965年版,重化学工業通信社,(1965)

(10) 宇治田惣次,玉井幸久:ボイラ技術の歩み,火力原子力発電,Vol.31, No.12(1980), 1315-1367.

(11) Calendar, Imperial College of Engineering, Tokei, 1873, in N. Miyoshi ed. The Collected Writing of Henry Dyer, Global Oriental, Folkestone, (2006)pp.17-22.

(12) 大阪帝国大学工学部講義要目,1935年版.

(13) 大阪帝国大学工学部学生便覧,1941年版.

(14) 大学令,勅令第三百八十八号,(1918)

(15) 大阪大学工学部学生便覧,1962年版。

(16) 清水一彦,大学設置基準の大綱化と大学の変貌,日本教育行政学会年報,Vol. 20(1994)pp. 25-37.

(17) 大阪大学工学部履修案内,令和2年入学者用.

(18) 海軍航空技術廠,初級技術士官心得(案),(1943)


<名誉員>

小澤 守

◎関西大学 社会安全研究センター 主幹研究員、、関西大学名誉教授

◎専門:熱工学、気液二相流、ボイラ

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