日本機械学会サイト

目次に戻る

2020/12 Vol.123

表紙の説明:これは、推力5tonターボファンエンジンFJR710形で、右からファン、圧縮機、燃焼器のケーシング部分である。1975年に通商産業省工業技術院の大型工業技術研究開発制度によって開発された。ブラッシュアップしたエンジンは、短距離離着陸ジェット機(STOL)飛鳥に4基搭載され500mで離着陸できた。
[日本工業大学工業技術博物館]

バックナンバー

特集 第100号を迎えた「機械遺産」

憧れのスバル360

佐藤 智明(神奈川工科大学)

幼少期の思い出

車幅ぎりぎりの田んぼのあぜ道の中、コトンコトンと揺られながら、私はスバル360の助手席に乗っていて、隣には父が得意気にハンドルを握って運転している。まだ緑色の稲の葉が車体にバサバサと触れてくる。車体の床からも、轍で車輪に踏まれずに真ん中に残った雑草の草が、コソコソとこすれる音がしている。私は、助手席のシートに立ち上がって腰をゆらして揺れをうまく吸収しながら、ダッシュボードの上に腕を置いてフロントウィンドウから目を輝かせて、過ぎ行く外を眺めている。私の記憶の中には、そんな幼いころのおぼろげな映像が刻まれている。今思えば、RR(リアエンジン、リアドライブ)のお尻が重たい車体で、ガタガタ道を走るのだから、フロントが浮いてしまって車内の揺れは相当なものだったと思う。

当時、私の家族は栃木県大平町にある父の実家に事あるごとによく帰省していた。父の実家は、当時としては珍しく自家用車を所有していて、その車がスバル360であった。父は、大学では土木工学を専攻していたが、本当は成績が足りずに機械工学科に進めなかったということもあり、元来機械好きの父にとっては、実家の所有でありながらも、自家用車を自由に運転できるということは、いかに楽しいことだったかと想像できる。そんな父が、実家のスバル360を借りて、助手席に私を乗せてドライブしていたある日の情景が、この私の心の中に残っている映像なのだと思う。

その後数年は、そのスバル360は父の実家にあったので、私が幼少期から少年期に入るまで、父の実家に行くたびに、そのスバル360に乗せてもらった。父以外にも、本来の所有者である叔母や叔父の運転で、従兄弟と一緒に乗せてもらい、買い物や家族の送り向かえなどについて行った記憶もある。そんなスバル360は、私には憧れの車だった。子供の私からしても、小さいなあと思うくらいのその車体は、丸い大きな目のようなヘッドライトと、その少し後方に、車体の割には少し大きめな、昆虫の触角のような丸いバックミラーがついていて、まさにテントウムシというニックネーム通りの姿をしていた。走り出すときは、いつも、もくもくと白い煙を上げた。その様子は、2つのブレーキランプを目とすると、何本ものスリットが刻まれたエンジンルームの換気部が髭のように見えたので、まるで葉巻を加えて煙をふかしているおじさんのようにも見えた。そして、決してパワフルな動きではなかったが、家族を乗せて、おいしょ、おいしょ、という感じで坂道を登る時は、人を4人も乗せてこんな坂を登っていくなんてすごいなぁ、と思っていた。だから、父の実家に行くときは、祖父母や仲の良かった従兄弟に会いに行くこともうれしかったが、このスバル360に乗れることは格別なことで、そんな父の実家に行くのが大好きであった。

スバル360との再会

それから四十数年がたち、私は再び間近でスバル360を見ることになった。それまでも、街中で時々スバル360を目にしてはいたが、さっと通り過ぎる姿が目に止まる程度で、間近で目にする機会はほとんどなかった。それが、機械遺産委員という立場でこの車を再度見つめる機会が来ることになろうとは、幼少期の私には思いもよらなかったことである。

調査の日、私は富士重工〔現:(株)SUBARU〕矢島工場のビジターセンターにやってきて、事前に連絡を取り合っていた技術管理部の髙見澤氏の案内でセンター内の展示室に通された。周りには、年代ごとに並べられた十数台の名車たちの中に、ちょこんと、そのスバル360が置かれていた。しかし、その佇まいは、かつて私が憧れたその車体よりもずいぶんと小さく感じた。そしてそれは、当時よりも自分が大きくなっていた証であり、歳月の経過を改めて感じた。髙見澤氏とはその場でしばらく今後の予定などの話をしたと思うが、すぐに調査をさせていただくということになって、私は一人スバル360と向かい合った。しかし、このスバル360は、私が幼少期に乗っていたものとは少し違っていた。この車両は、最初は試作機として製造されて、そのまま実際に販売に回された増加試作車(K111型)で、初期中の初期の型であった。スバル360はその後デザインの変更があったが、私が知っているスバル360はもう少しヘッドライトが大きく、フェンダーミラーがついているタイプだったので、おそらく後期型ものだった。しかし、後ろに回ってその車両を見たときに、とっさに懐かしさがこみあげてきた。後部のデザインは初期型も後期型も同じだったのだ。

そこには、昔の記憶の中と同じように、髭を生やしたのんきそうなおじさんが、ひょこんとしてこっちを見上げていた。


<正員>
佐藤 智明
◎神奈川工科大学 教職教育センター・大学院機械システム工学専攻 教授
◎専門:技術教育、教育工学、熱工学、博士(工学,人間科学)

キーワード: