特集 第100号を迎えた「機械遺産」
ドラフター 徒然なるままに 国産初、万能製図機械MUTOH『ドラフターMH-I』
学会創立110周年記念事業の一つである機械遺産の初の認定に向け、調査担当であり、自身が機械遺産小委員会委員として候補に推薦した「ドラフター第1号機」を実地調査したのは14年前の2006年12月15日であった(図1)。
国産初のドラフターの考案者は武藤与四郎〔1904(明治37)年–1978(昭和53)年〕と次代の経営者となる武藤 洋である。与四郎は都制施行前年の1942(昭和17)年に東京府東京市世田谷区に武藤目盛彫刻研究所を興した。商号は戦後の1952(昭和27)年に(株)武藤目盛彫刻(製品銘板では「武藤目盛彫刻所」とするものもある)、1959(昭和34)年に武藤工業(株)に変更され、2007(平成19)年のMUTOHホールディングス(株)の創設により分社化されたが、現在も存続する。戦前・戦中は円板形航空機航法計算尺やノギス・回転分度器などの衡器を製作している。これらの製品には武藤が修練を積んだ、正確に目盛を刻む高い技術力が反映されていた。
図1 調査時のMUTOHドラフター『MH-I』
段ボール箱に貼られた紙片に『ドラフター第1号機』の文字が見られる(筆者撮影)
表1 手描き用製図機械の価格と物価※の比較 (円)
※物価はhttps://www.jibunbank.co.jp/column/article/00251/(閲覧2020/9/20)などによる
製図を描いたことがあれば、製図機械と言えば「ドラフター」が業界標準(de facto standard)であることは誰もが承知のことである。生前の武藤与四郎を取材した書(1)によれば、その誕生の契機は1951(昭和26)年、47歳のときに電車で乗り合わせた隣席の進駐軍米人が読んでいた外国雑誌の広告蘭に製図機械を見たことに始まるとされる。確認のため、これと思われる雑誌について、1902年の創刊号から調べてみると、確かに1951年11月号の広告(2)に初出となる「DRAFTING MACHINE」が掲載されていた(図2左)。
当時の為替率が1$=361円の時代、日本の平均年収は約12万円であるが、同年号に掲載されていた専門学校の広告では、米国の製図士の年収は約$7,000(約253万円)であった。しかし、いずれの専門学校の広告にも依然としてT定規と三角定規を使用している図が見られた(図2右)。
日本に製図機械が輸入された確証は、測量機器販売店の型録(3)に見られる。そこには米国特許1913年の梯子(パンタグラフ)形のものが掲載されている(表1)。
図2 米国雑誌(2)に初出の“DRAFTING MACHINE”と専門学校の広告 (1951年)
我が国では戦後間もない頃はT定規と三角定規による製図がまだ主流であった。武藤与四郎は、製図作業の能率を高め、誰でも容易に高精度の作図ができる方法について戦中から構想を持っていた(1)。戦後復興期の日本の工業界は、リバース・エンジニアリング(reverse engineering)が基盤であり、武藤も外国製品を取り寄せ、自身の几帳面な性格と目盛彫刻の精密機械加工技術を生かすと共に、製図機械生産工程の単純化と部品の標準化を試みた(1)。試行を重ねること2年、1953(昭和28)年に高精度のベルト・プーリ式アーム形の手描き用製図機械が誕生し、翌1954年に「ドラフター」と命名して販売が開始された。
機械遺産に認定されたドラフターMH-Iの定規取付け支板には、1953年と1954年の実用新案出願番号が刻まれている(図3)。「ドラフター、DRAFTER」の商標登録出願は1958(昭和33)年が最初で、現在も商標権は有効である。ちなみに機械遺産認定機の型式“MH”は武藤 洋のイニシャルを表す。
図3 わが国初のドラフターは『自在平行定規』として武藤 洋により実用新案出願された(1954年)
機械遺産に認定されたドラフターはMUTOHホールディングス本社に展示されている(4)。このドラフターが第1号機と断定できる確証は、保管されていた段ボール箱に技術者が残した文字に見ることができる(図1右)。
1954年に販売開始されたドラフターの販売台数は、1957(昭和32)年の時点で年間360台程度であったが、販売方法を他社経由から自社営業に切り替え、さらに販路を北米や欧州に広めた結果、1963(昭和38)年には2万7000台、売上高にして約10億円にまで達した(1)。他社の追従があったものの、1970年代後半には年間12万台を販売し、国内シェア約7割、OEMも含めた世界シェアでも約5割を占め、売上高は100億円以上となった(4)(5)。
製図作業の高効率化と高精度は、ドラフター取扱説明書(6)に見ることができる。製図の要となる定規の平行度は±3/10000、定規は20℃の恒温室で目盛彫刻されており、特に精度が要求される場合には軽金属製で±2/100mmが保証された。角度円盤の目盛は全円を1°刻みに等分してあり、バーニアにより1/6°(10分)が保証されている。製図作業の効率化の一例として、同じ大きさの長方形を描くときの手の動きを比較した場合、ドラフターはT定規と三角定規を使用する場合に比べ作業効率が約10倍高いとされる(図4)。
T定規と三角定規 ドラフター
図4 同一の長方形を描いたときの手の動きの比較(6)
ところで、現在の機械系大学生がドラフターをどれくらい使用しているのか? 筆者が機械工学科に在籍・在職した経験を基に調べてみた(表2)。結果を見れば、50年間に製図科目のコマ数(講義時間数)が約6割減少していることが分かる。教員が教える内容は50年前も今も大きく変わらない。したがって講義の流れとして製図法の説明の効率化を図ることになる。製図科目のコマ数削減の弊害は学生に押し付けられた形となり、実際にドラフターを使用する機会が8割も減少しているのは自明の理と言える。
表2 関西の或る私立大学の機械工学科におけるドラフター使用の実際
*当該大学の機械工学科は1958年に開設され、1970年に初めてMUTOHドラフターが設置された。
**1室は固定取付けの平行定規専用のため、取外し中のドラフターを除く。
***2020年は講義要項による。
明治維新期に興った日本の産業革命において、“ものづくり”の基礎となる製図は産業の多くの分野で重要とされた。その証しは2020年認定の機械遺産第100号に製図器具が含まれていることからも明らかである。
現在、設計製図に3D CADを使用することが当然の時代であるが、筆者にしてみればそれは仮想現実(VR:Virtual Reality)や拡張現実(AR:Augmented Reality)によるもので、技術者の「ひらめき」が入る余地は少ない。国際技能競技大会(技能五輪)でさえ、機械製図種目はCADである。
本会の「技術と社会部門」の標語『技術と社会の関連を巡って:過去から未来を訪ねる』に鑑みて、もう一度原点にもどり、烏口(からすぐち)・オイルストーン・トレペ・墨入れ・青焼き・テンプレ・雲形・ロットリングやステッドラー(商標)など、手描き製図の味わいと奥行きの深さ、製図用紙を俯瞰して部品図や組立図の配置をあれこれ工夫する楽しさと、描き直しができない一発勝負の恐ろしさを今どきの学生諸君にはぜひ体験して欲しいものである。
参考文献
(1)渡辺栄二, 奇跡の会社, 光文社, (1965), pp.54-60.
(2) Henry Haven Windsor Edit., Popular Mechanics, Vol.96, No.5 (Nov. 1951), p.326.
(3) 合名会社 玉屋商店, 大正12年度大阪販売店商品目録, (1923), p.124.
(4) 早川信正, 機械遺産のDNA-万能製図機械MUTOHドラフター『MH-1』, 日本機械学会誌, Vol. 120, No.1186(2017.10), pp.38-43.
(5) MUTOHホールディングス株式会社, 人と企業の創造力を高めたい-“ものづくり支援” MUTOHの挑戦, (2015.3). https://www.mutoh-hd.co.jp/pdf/201503_mutoh_challenge.pdf(参照日2020年10月8日).
(6) 武藤工業株式会社, ドラフター取扱説明書(1969), p.5.
<フェロー>
緒方 正則
◎機械遺産委員会 元委員長・現アドバイザ、元 関西大学、Ex-Hired Professor of Jigme Namgyel Engineering College, Royal University of Bhutan.
◎専門:機械技術史・工学史
キーワード:第100号を迎えた「機械遺産」
表紙の説明:これは、推力5tonターボファンエンジンFJR710形で、右からファン、圧縮機、燃焼器のケーシング部分である。1975年に通商産業省工業技術院の大型工業技術研究開発制度によって開発された。ブラッシュアップしたエンジンは、短距離離着陸ジェット機(STOL)飛鳥に4基搭載され500mで離着陸できた。
[日本工業大学工業技術博物館]