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2018/11 Vol.121

【表紙の絵】
地球アニマル保ごしせつ
村井 暁斗 くん
(当時10 歳)
動物を地球の中に入れてすみやすいようにしている。
またしょく物も入れているので定期的に水を外から、あたえる。
野生動植物をほごする。

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機械遺産が語る日本の機械技術史

第9回 機械工学史料

はじめに

機械工学は機械と機械技術に関わる知識の集成ないしは学問である。機械工学史料には学術書、技術書、論文や報告書、設計関連資料(仕様書、図面、規格など)、教育関連資料(教科書、講義ノート、教材など)があり、そのほか建議書、手記、口伝、カタログの類も含まれよう。これまでに学会で認定された機械工学史料の数はきわめて少ないので、以下、認定の有無によらず、歴史的に重要と思われる史料とその背景について概説する。

江戸時代中期まで

現在のような金属材料を主体とする機械が日本に初めてもたらされたのは天文20(1551)年、イエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルが周防の大内義隆に献上した機械時計(現存せず)であろう。江戸時代、機械時計は最も精密で複雑な機構をもつ金属製機械であり、日本固有の不定時法に適応する独創的な和時計(割駒式文字盤、二挺天符を特長とする)として独自の発展をみた。時計の機構はからくりにも応用され、寛政8(1796)年、天文暦学者の細川半蔵頼直が著した『機巧図彙(からくりずい)』3巻(図1)は機械時計とからくりの図解製作指導書で、我が国の技術力の底流を示す史料として注目される。

図1 細川頼直『機巧図彙』寛政8(1796)年

 

幕末・維新期

日本への西洋近代科学・技術の本格的な導入の引き金となったのは嘉永6(1853)年の黒船来航ではなく、その10年ほど前、アヘン戦争の結末が幕府・諸藩の有識者に与えた衝撃と深刻な危機感である。緊急の課題は蒸気艦と大砲の製作技術の獲得であり、天文学と医学が中心だった従来の「蘭学」は西洋の近代科学と技術を対象とする「洋学」へと急速に変貌した。機械工学技術を含む洋学の導入と吸収では安政3(1856)年に幕府が開設した蕃書調所(東大の源流の一つ)のほか、横須賀製鉄所(造船所)併設の技術黌舎(造船技術学校)の諸資料は特に重要である。これらの施設ならびに人材・器材・文献資料のすべては無傷のまま明治新政府に受け継がれている。

明治維新の結果、江戸を離れて静岡に移った徳川家は再興を期して明治2(1869)年、最強の教授陣をもって沼津に兵学校(事実上の理工科学校)を創設して多くの教科書を刊行し(沼津版といわれる)、当時最高レベルの教育により理工学に秀でた優秀な人材を輩出した。同校と並んで旧幕府の流れを汲む海軍兵学寮のものとされる『蒸気器械書』4巻と付属の『海軍蒸気器械図』21図(図2、ともに明治2(1869)年刊行)は圧巻である。これらは揺籃(ようらん)期の記念すべき史料として昭和9(1934)年、当時の海軍機関学会より簡単な解説付きで復刻されている。

 

図2 上『蒸気器械書』 下『海軍蒸気器械図』 いずれも明治2(1869)年

明治・大正時代

新政府は明治3(1870)年に工部省を設立、明治6(1873)年には工学寮工学校(のちの工部大学校、東大工学部の前身)が開設されて英人ダイアーを都検(校長)とする本格的な洋式工学教育が始まった。ここでの教育に関する資料には貴重なものが多い。同年、工部省が東京・芝の赤羽に設置した赤羽製作所(明治11年、赤羽工作分局と改称)は明治14(1881)年の第二回勧業博覧会向けに製品目録『製造機械品目』(図3)を発行した。これは当時の機械製造技術水準を知る貴重な資料である。明治18年(1885年)、東京大学の教科書として文部省が刊行した『蘭均氏汽機学』(図4)はランキンの名著「Manual of Steam Engine」(1876)の翻訳書であり、当時の工学教育のレベルが伺われる。

(高圧蒸気機械)

 

(表紙)

図3 工部省赤羽工作分局 製品目録『製造機械品目』

明治14(1881)年

 

  

図4 『蘭均氏汽機学』 明治18(1885)年

明治30(1897)年、工部大学校卒業生らで機械学会が設立され、初代幹事長(会長)には発起人である同校第三回卒業生の真野文二(沼津兵学校付属小学校の出身)が就任し、半年後には『機械学会誌』(機械遺産No.24)が創刊された。この時期の貴重な工学史料として『東京帝国大学水力学及び水力機械ノート(真野文二/井口在屋教授)』(機械遺産No.25、明治38(1905)年および学会初期の重要作業として刊行された『機械工学術語集』第一輯〜第五輯(機械遺産No.24、明治34〜大正13年、1901〜1924年)がある。

昭和・平成時代

昭和期になると機械製品の国産化が急速に進み、機械工学と機械技術への期待が高まった。大正13(1924)年には機械学会は法人化され、『国産機械図集』(初版:機械遺産No.69、昭和7(1932)年)、『機械工学便覧』(初版:機械遺産No.24、昭和9(1934)年)、そして昭和10(1935)年には『機械学会論文集』が次々と発行された。こうして機械工学・機械技術を推進する学会としての体制が整ったといえる。日本機械学会への改称は昭和13(1938)年である。

第二次世界大戦後、高度経済成長初期の昭和31(1956)年、経済白書は「もはや戦後ではない」と述べ、昭和33(1958)年には欧文論文集が初刊行された。海外の機械学会との交流も本格化してこの関係は現在に継承されている。

以上みてきたように、今日に至る日本の機械技術の発展、ならびにこれに貢献した本会の働きの跡を証するものとして、機械工学史料の存在はまことに大きな意義があることをここに明記したい。

機械工学史料の発掘について

本学会でこれまでに認定された機械遺産は“もの”が大部分であり、機械工学史料に関わるものはきわめて少ない。今後推奨すべき機械遺産としては図1〜図4に示したもののほか、時代を画した技術の開発に関わる記録や当事者の回想録、例えば新しいものでは元鉄道技研の松平精による『零戦から新幹線まで』(図5、1974年)などもあってよいのではないか。遺産として“もの”が主になるのは当然ともいえようが、“もの”や新技術ができあがるに至った背景や過程を語る文書もまた歴史を証する史料として大切な遺産である。歴史における文書史料の重要性に鑑み、本会での技術史・工学史研究の一層の推進に合わせ、今後に期待したい。

図5 『日本機械学會誌』Vol.77、No.667 昭和49(1974)年

最後に、機械工学関連史料の発掘に寄与すると思われる文献をいくつか挙げておく。

(1)三輪修三, 『工学の歴史—機械工学を中心に』, ちくま学芸文庫(筑摩書房, 2012)

(2)研究分科会(編), 『機械技術史研究』機械技術史研究分科会報告書(日本機械学会, 1994.9)

(3)調査研究会(編), 『幕末・明治期における理工学書解題—機械工学を中心に』 幕末・明治期の理工学書調査研究会報告書(日本機械学会, 1997.2)

(4)日本科学史学会(編), 『日本科学技術史体系18、機械技術』 (第一法規出版、1966)

*本稿における年号の表記は、他の文献資料との照合の便を考慮して和暦(元号つき)を主とし、西暦を併記している。


三輪 修三先生は2018年9月にお亡くなりになられました。

ご冥福をお祈りいたします。


<名誉員>

三輪 修三

◎青山学院大学 名誉教授

◎専門:機械振動学、音楽音響、機械工学史

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