特集 夢未来マップ ~日本機械学会が目指すもの~
これからの世界を生きる人材を育てる工学教育
1. 緒言 工学教育の使命とは?
多層ニューラルネットワークを用いたディープラーニングの技法が近年急速に発達し、「2011年度に小学校に入学した子供の65%は、大学卒業時に今は存在していない職業に就くだろう」(1)と言われるまでになった。
このような近未来社会に向けた人材育成においては、人工知能と共存して活躍できる能力が必要となり、ここでの教育の使命は、社会に送り出した学生が卒業後40年余りの間、役に立つ人材として社会・世界に貢献でき、またこの間、生き甲斐を持って人生を送ることができること、であると考える。
本稿ではこのような世界に学生を人材として送り出すために工学教育に求められること、このような教育の実例、およびこれに係わる日本機械学会の役割、などについて考えることとしたい。
2. 教育目標についての考察
~必要とされる「2つの能力」と「大学教育に求められていること」~
2.1. 人工知能と共存できる能力
人間が人工知能と共存して活躍するためには、人工知能が不得意で、人間らしさが生かせる分野の仕事をする必要があるが、そのような仕事に関係する主な能力の例として、下記の3つが上げられている(2)。
- デザインする力(クリエイティビティ):全く新しいものを作り出す能力。課題の特定、新しいコンセプトのデザイン、新しい着想、通常では発想に至らない仮説を導き出す、などの能力
- 人を動かす力(リーダーシップ/マネジメント):人と人が行うデリケートかつ複雑なコミュニケーションを行い、ビジョンを示して人々を奮い立たせて勇気付け、人々をある目的に導き、目標を達成させるために意識付けるなどの人を動かす能力
- 人の感情と向き合う力(ホスピタリティ・課題解決):人が感じる潜在・顕在的課題と向き合い、自分ごととして不便、不満などを解決・解消するための能力
2.2. 生涯学習能力も必要(ユネスコの提言から)
今後の世界は変化の激しい予測困難な時代であり、時々の状況に応じて必要な知識・能力を自律的に修得していく必要がある。このためには、ユネスコが1996年にまとめた教育・学習の提言報告書「学習:秘められた宝」に示される、下記の4本柱で構成されるような生涯学習能力(3)を工学教育の終了時点で身に付けておく必要がある。
- 知ることを学ぶ: 生涯にわたり、必要とされる広い教養と深い専門を身に付けるための教育の機会を活用できるように、自律的に学ぶ方法を学ぶ。
- なすことを学ぶ: 学んだことを実際に応用して多様な事態に対処するための、問題解決能力やチームで働く能力を身につける。
- ともに生きることを学ぶ: 多様性、相互理解と平和の価値を尊重して、共に働くやりかたを学ぶ。
- 存在することを学ぶ: 人間としての生きかたを自ら決断できるように、自律心、判断力、責任感をもって行動できる能力を学ぶ。
2.3. 予測困難な時代に大学教育に求められていること(中教審の提言)
文部科学大臣の諮問機関である中央教育審議会は、平成24年の答申『新たな未来を築くための大学教育の質的転換に向けて』(4)において、いくつかの提言をしている。この答申の副題も「生涯学び続け、主体的に考える力を育成する大学へ」となっていて、前節のユネスコの提言と重なるものとなっている。この答申では、下記(1)(2)のように、課題解決型の能動的学修が必要で、そのために学修時間の増加、質保証のためのPDCAサイクルの確立、等を求めている。
(1) 予測が困難な時代における大学の責務
「生涯学び続け、どんな環境においても“答えのない問題”に最善解を導くために必要な専門的知識及び汎用的能力」(同答申)を育成することが大学教育の大きな目標となる。これに求められる教育とは、課題解決型の“能動的学修(アクティブ・ラーニング)”を中心とした教育である。また、このような教育のためには、主体的な学びに要する総学修時間の確保も重要である。
(2) 学生の主体的な学びの確立の方策
学士課程教育の質的転換のためには、以下の諸方策の確実な実施が必要である。
教育課程の体系化:教育課程がどんな知識、能力を修得させようとしているか、そのために個々の授業科目がどのように関連しあうか、が明示されること。シラバスの充実:学生に提示するシラバスは、授業のために学生が実施すべき事前準備や事後展開などの指針、他の授業科目との関連性等の記述を含み、授業の工程表として機能するように作成されること。
学修成果の把握:学生に必要な知識・能力を身に付けさせるためには、その達成度を把握するための学修成果の測定が極めて重要である。
学士課程教育の改革サイクル:「学位授与の方針」、「教育課程編成・実施の方針」、「入学者受入れの方針」の3つの方針に基づいた教育の質保証のためのPDCAサイクル、それを支える全学的な教学マネジメントやガバナンスの確立が必要である。3つの方針の中で「学位授与の方針」は特に重要で、各大学が学生にどのような付加価値を与えて社会や大学院に送り出すかの到達目標であり、各大学において明確にすることが求められる。
3. 新しい工学教育の試み
本章では、前章までに述べた能力の育成と、そのための教育の枠組み・内容を実現するための教育の試みについて説明する。
新しい工学教育では、教育を「教える」と「学ぶ」の2つのフェーズで考えるとともに、追求する付加価値の種類によって、“完全習得学習型”と“高次能力学習型”の2類型に分けている(5)。
“完全習得学習型”は、基礎的な事項について「教える」ことを学生の事前学習(授業ビデオによる自習など)で行い、授業時間中の対面指導では、理解不充分な学生に個別に「教える」ことと、演習等のアクティブ・ラーニングの中で「学ぶ」ことの両方をさせる。これにより、全員に一定水準以上の理解をさせる教育方法である。
一方、“高次能力学習型”は、「教える」ことを学生の事前学習にまかせ、授業時間中では、PBL(Project Based Learning)等のアクティブ・ラーニングを活用した「学び」により、高次の能力を育成する教育方法である。
3.1. アクティブ・ラーニング
2.3 でもふれたが、中教審答申では、「主体的に考える力を持った人材は、受動的な教育の場では育成することができない。従来のような知識の伝達・注入を中心とした授業から、教員と学生が切磋琢磨し学生が主体的に問題を発見し、解を見出していくアクティブ・ラーニング(AL)への転換が必要である。」(一部抜粋)とされている。
また、学修効果についても、以下のことが言われている。学修したことの記憶率・定着率は、学生の能動的な学修によって上昇すると言われているが、この理由は、「ALの基本的活動」が、「まず自分で考えて理解し、これを文章にまとめる、あるいは他者に説明することで明確化し、それを教員あるいは他の学生の異なった考えとすりあわせることで、多様な考え方があることを知り、自己の考えを相対化し深める」ことになっているためである(6)。
以上の2点から、アクティブ・ラーニングは、大学工学教育にとって、重要な学修方法となっている。
3.2. 反転授業(7)
反転授業は、説明型の講義などで行なう基本的な学習内容を授業ビデオなどで事前に自習してもらい、授業では演習や個別指導・プロジェクト学習など知識の定着や応用力の育成に必要な対面型学習を行なう授業方法である。事前の自習が講義的で、授業が定着・復習になっていて、これまでの自習と授業の関係が反転しているところから反転授業と呼ばれている。教員が学生に直接対面でやる必要のない活動を授業時間外に移し、教室内での個別指導や協調学習のための時間を確保することを主な目的とするものである。
3.3. 反転授業とAL導入の完全習得学習型の例(8)
本節では、東京電機大学未来科学部での反転授業の事例を紹介する。ロボット・メカトロニクス学科では、受講生150名の演習科目(2年次必修)において、音声付きパワーポイントの予習ビデオによる自宅学習と教室でのグループワークを組み合わせた反転授業を14回実施し、予習の習慣化、知識の定着化による期末テストの点の向上が示された。試行前には大人数教室でのグループワークに懸念があったが、演習課題完成の達成目標を受講生が共有し、教え合い形式での問題解決を促すともに、個々人の達成度をグループで相互確認させることにより、大人数でも反転授業が可能であることが確認できた。教え合いでは、早く解答できた学生を教員の確認後「チェックマン」として他の学生の指導に当たらせた。この結果、近年顕著な受講生の基礎学力格差問題、TA(Teaching Assistant)の技量不足や受講生の落ちこぼれ・ふきこぼれ問題に対する反転授業の有効性が示された。
他方、ビデオ教材なしで教科書の予習をさせる形式の反転授業では好ましい結果が得られなかった。教科書を読んで要点を理解する習慣がついてない学生にとっては、このような予習は負担感が大きく、途中で挫折することが多い。予習の重要性についての教員の丁寧な説明と受講生の理解は必須であるが、学習習慣の転換は意志の強い学生にとっても困難を要するようである。結論として、反転学習の普及にはビデオ教材が必須であること、同時に学部入学や大学院進学など新生活の開始時からの導入も、習慣づけという意味で重要であることが分かった。
3.4. 高次能力学習型の例としてのデザイン教育
2章に示したような高次の能力を育成するためには、真正な(Authentic:実社会の事象に限りなく近い事象を内容とし、社会への参加能力育成を目標とする)教育が有効で(9)、その実現のために、社会と連携したデザイン指向のイノベーション人材育成教育が世界的に実施されている。これらの例としては、技術、ビジネス、人的価値、の3要素が重なった場で創造的なデザイン思考プロセスを学ばせるStanford大学のd.schoolが有名であるが、日本でも東京大学のi.school、京都大学の「デザインスクール」、慶応大学システムデザインマネジメント研究科の「デザインプロジェクト」、大阪大学ビジネスエンジニアリング専攻の「ビジネスエンジニアリング研究」、東京工業大学の「エンジニアリングプロジェクト」など同様のプロジェクトが多数実施されており、これからの世界で活躍するために必要な知識・能力を育成するための、注目すべき教育手法と考える。
本節では、東京大学のi.schoolを例にとり、デザイン指向のイノベーション人材育成教育の目指す思想と、これを実現するための教育内容の概要を解説する(10)。
i.schoolが目指す中心概念は「人間中心のイノベーション」であり、これまでの教育が目指した技術革新によるイノベーションとは異なる、人々の暮らしや価値観を洞察することで生まれるイノベーション、すなわち、人々のライフスタイルを変えられるような新しい価値の提案能力の育成を目指している。
ここでは20~30人の意欲的学生を全学から募集し、これを6人程度のチームに分け、週1回3時間×10回のワークショップを実施し、「日本の農業の未来」「働く母親と子供のコミュニケーションを支援する」のような、人々の暮らしと密接に関わる目的をテーマとして与え、これを達成する製品やサービスなどの手段を発案することが課題となる。
プログラムの目標は、イノベーション人材に必要な下記の2つである。
- 課題解決に最適なワークショッププロセスを設計できること
- 新しくてインパクトを生み出すモノやコトを生み出せるという自信を持つこと
前者は創造的なアイディアをまとめるためのスキルセット(グループワークのスキル、問題解決のフローを設計するスキル)、後者は成功体験を通したマインドセット(前向きの気持)の育成である。このほかイノベーション人材の要素として最も重要ではあるが、直接の育成が難しいのが、イノベーションの原動力となるモーチベーションで、i.schoolでは社会的課題を解決するようなテーマに取り組むことでその育成を期待している。このスキルセット、マインドセット、モーチベーション育成のため、i.schoolでは下記の2つの方法論を学ぶ。
- 一般化されたワークショッププロセスの標準モデル
- 目的を果たす手段創出のためのアブダクション(結果を最も良く説明できる仮説形成)
前者では、テーマの目的とその解決手段に関する基礎的情報を教育や学生の情報収集で集め、その内容分析、目的達成手段のアイディア創出、アイディア精緻化、手段のプロトタイピング、新手段提案、からなるワークショッププロセスを形式知として学ばせる。
後者では、アイディア出し・精緻化に有効な、アブダクションに使用する新しい手段を生み出す9つの手法(他者理解、未来の洞察、概念明確化、思考の方向シフト、価値基準シフト、新しい対象への適用、アナロジー、想定外の使い途、ちゃぶ台返し)を、ワークショッププロセスの中で意図的に使わせることで学ばせている。
i.schoolでは、このようなワークショップ遂行に必要な2つの方法論を学ばせた後、所与のテーマの課題解決をチームで行わせることで、イノベーション人材に必要な要素であるスキルセット、マインドセット、モーチベーションを育成している。
4. 日本機械学会の役割
以上、これからの工学教育で育成すべき知識・能力と、そのシステム的育成に必要な教育の質保証枠組み、および、その枠組みの中で効果的・効率的に必要な能力を育成するための教育法の実例について解説した。
このような教育の枠組みと内容を各大学で適切に整備・構築・運営するに当たっては、大学トップがその趣旨と必要性をきちんと認識し、それを各教員にまで浸透させるとともに、必要な資源と環境を準備する必要があり、大学の各層別の講習会等が必須である。このため、JABEE(日本技術者教育認定機構)と日本工学教育協会では4年前から、「国際的に通用する技術者教育ワークショップシリーズ」と題して年2回、教育の質保証枠組み、学習・教育到達目標の設定法と達成度評価法、効果的・効率的教育法、等についての講習会を実施してきた(11)。
このような状況を踏まえ、日本機械学会が今後の工学教育のあるべき姿の構築のために果たすべき役割は、下記の項目の検討と普及になると考える。
- 機械工学を学んだ技術者が今後40年以上にわたって働くことになる仕事の世界の展望
- このような世界で必要な知識・能力の内容・水準と、その育成に必要な教育内容・手法
- これらを踏まえて、大学と産業界およびこれをつなぐ日本機械学会がなすべきこと
上記の(1)~(3)については、大学教育に共通な部分と機械工学分野固有の部分があり、前者はJABEEや日工教などと一緒に講習会を計画することが考えられる(11)。後者は、日本学術会議の「大学教育の分野別質保証のための教育課程編成上の参照基準 機械工学分野」(12)に、分野の特性、全ての学生が身に付けるべき基本的素養(分野固有の知識・理解・能力、汎用的能力)、学習方法・学習成果の評価法、等が簡潔にまとめられている。
「2011年度に小学校に入学した子供の65%は、大学卒業時に今は存在していない職業に就くだろう」という予測困難な時代において、私たちの仕事の分野を確保・発展させるためには、有能な後輩を育成することが必須であり、これからの工学教育のあるべき姿について解説した本稿の内容を、学会の工学教育改革の方向付けにお役立ていただければ幸いです。
(1)産業競争力会議 雇用・人材・教育WG(第4 回), 文部科学省提出資料 資料2,平成27 年2 月17 日
http://www.kantei.go.jp/jp/singi/keizaisaisei/wg/koyou/dai4/siryou2.pdf(参照日2016 年8 月19 日)
(2)人工知能 (AI) ができる3 つのこと, Hironori Tsubouchi
http://blog.btrax.com/jp/2015/11/23/ai-02/(参照日2016 年8 月19 日)
(3)山崎ゆき子, ユネスコ21世紀教育国際委員会報告書『学習:秘められた宝』より
http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/705278.pdf( 参照日2016 年8 月19 日)
(4)中央教育審議会大学分科会 大学教育部会,「 予測困難な時代において生涯学び続け、主体的に考える力を育成する大学へ」(学士課程教育の質的転換と学士課程答申), 平成24 年3 月26 日.
(5)森朋子, 反転授業, Between, 2014 年4-5 月号, pp.34.
(6)溝上慎一, 学士課程教育の質的転換を目指すためのアクティブ・ラーニング
https://www.rikkyo.ac.jp/academics/undergraduate/zenkari/_asset/pdf/forum18_03.pdf(参照日2016 年8 月19 日)
(7)ジョナサン・バーグマン, アーロン・サムズ, 反転授業, (2014), オデッセイコミュニケーションズ.
(8)汐月哲夫 ,「技術は人なり」を体現する東京電機大学の教育改革, IDE, 7月号(2016), pp.36-39.
(9)藤本将人, 福田正弘, オーセンティック概念に基づく社会科授業開発モデル, 教育実践総合センター紀要, No.6(2007), pp.79-91.
(10)堀井秀之, 東京大学i.school におけるイノベーション教育の試み, 工学教育, Vol.63, No.1(2015), pp.37-42.
(11)技術者教育振興活動, シンポジウム・ワークショップ,「国際的に通用する技術者教育ワークショップシリーズ」
http://www.jabee.org/activity/symposium/(参照日2016 年8 月19 日)
(12)大学教育の分野別質保証のための教育課程編成上の参照基準 機械工学分野,日本学術会議, 2013 年8 月19 日.
<名誉員>
工藤 一彦◎東京電機大学 教育改善推進室 アドバイザ |
キーワード:特集
【表紙の絵】
「ハッピーハッピーマシーン」
中村 遼くん(当時5 歳)
作者のコメント:
人の心を傷つける人や、けんかばかりする人をハッピーハッピーマシーンが吸い
とってくれて、心のきれいな人に産まれかわらせてくれるよ。
みんなが幸せになってほしいな。