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生涯教育 山川 新二 工学院大学

 国際基準に則った技術者の育成という課題の中で、大学教育の改革と共に生涯教育が大きな話題になってきています。これまでは例えば某大企業の技術系の係長であったということが一つの肩書きとされていましたが、これからは何々を専門とする技術士ということが技術者としての信用の基になるという流れとなっています。これまでも生涯教育の必要性は叫ばれていましたが、会社で大残業をして当面の仕事を出来るだけたくさん消化することが会社にとって良い社員という風潮が続いてきました。

 しかし大会社自体が永遠に繁栄し続けるものでないということが現実に身の回りで起こってきました。立派な専門技術を身に付けて、いざというときにも自分の存在が明らかに出来るような技術者になることが要求されています。そして会社の中でその技術を活かすことが結局会社に貢献する道ともなる訳です。

 私も将来どのような技術者になろうかということを若い時から心掛けて技術を身に付けようとしていた訳ではありませんが、時々今のままでは駄目で何とか前進しようと思いました。もっともそのために絶えず努力していたという訳ではなく、むしろ怠け者だった時間の方がはるかに多かったと思います。時代も環境も大きく変わっていますが、結果として私が自分に課した生涯教育らしきものを少し書いてみようと思います。

 1955年の春大学を卒業して某自動車メーカーに就職し、3ヶ月の実習期間を終えて設計課に配属になりました。朝鮮動乱沈静化後の不況期で、当時週六日の出勤日のうち土曜日は操短で、もちろんその分給料が引かれる訳ですが、自由な時間を謳歌してきた学生時代から一日八時間の拘束を受ける会社員になったばかりの身にとって日曜日以外週一日の自由は大歓迎でした。

 新入りの設計課員に与えられた仕事は前年に発売された新大型バスの不具合あと処理、すなわち図面寸法記入ミスや部品表の記入ミスへの対応など事務的な設計変更処理が大半でした。深く考える必要があることは少なく、それを八時半から四時半までやっていれば開放される訳で仕事の負担は少なく、給料は普通に貰えるのですから時間の拘束を別にすれば極めて楽な身分です。秋になって果たしてこのままでよいのかという気分になり、朝の内15分間だけ時間を頂いて会社にある英文技術誌を勝手に読ませて頂くことにしました。もちろんその分だけ定型的な仕事の処理では効率を上げている積りでした。
 そのうちにやっと少し技術屋らしい仕事が回ってきました。一つは排ガス消音器の性能改善で当時身の廻りに参考になる文献も少なく、二週間の出図期限、取り付け関係を変更しないという設計条件で消音器の体積を増す工夫だけして事実上初めての設計業務を処理しました。次は転位歯車の設計時に作られた検査基準の計算違いの修正で、当時の機械式(タイガー)計算機を1週間ほど手で廻し続けて原因を追及し修正しました。

 やがて大型バス設計当初のミスの処理も一巡して、担当設計者が設計出図の際に手の廻りかねていた組立図を作成する仕事になりました。これは部品図と部品表から改めて組立図を作るもので、一見単純な仕事ですが、自動車の機構を知る上で非常に良い勉強になりました。ただ私は図面書きが下手で、A0クラスの大きなトレーシングペーパーの上に鉛筆で書いたり消したりしているとだんだん図面が薄汚れてくるのには閉口しました。また当時自動車に用いられていたベアリングには統一規格がなく、課内で二、三人の大ベテラン課員だけが持っている各メーカーのカタログを短時間借りて寸法を調べなくてはならないのにも参りました。頭を下げる位何でもないのですが、ご本人が席にいて他の人と打ち合わせなどしていないときを狙わなくてはならないため、思うように仕事が進まないこともありました。
 一年経って空気ばね付車開発設計の担当者補助となりました。わが国でも鉄道ではすでに実用化されていましたが自動車ではこれからということで大いに仕事への意欲がわきました。この仕事をやりながら自分が力学や振動学の方面に適性があるらしいと思い始めました。

 会社に入って3年目、動力伝達系の強度担当となり室内試験を繰り返している内に、動力伝達系に大荷重が発生するメカニズムの糸口を見付け、実車試験とその頃普及し始めたアナログコンピュータによる解析をまとめた経緯については機械学会論文集62巻603号の研究随想に載っていますので関心のある方はお読みください。この研究のめどがついて自分の名前が論文集に初めて掲載されることになりました。

 同じく会社に入って3年目ドイツ語の自動車雑誌ATZを読もうと思ったら大苦戦、教養課程で習っただけのドイツ語がすっかりなまってしまったらしいのです。仕方なく隔日の就業後都心のドイツ語学校に通って復習することにしました。しばらく後になりますがATZのかなり長い記事を和訳したものが残っています。同じ年スプートニクが上がりました。ロシヤ語もやっておかなければならないのか、どうせやるならと本場の日ソ学院に入って慣れないキリル文字と取り組み、1年後にどうやら辞書を引き引き自動車雑誌を読めるようになりました。結局ソ連は自動車そのものに関しては余りレベルが高いとは言えず直接仕事に役に立ったことはありません。70才を過ぎてから新約聖書をギリシャ語で読もうかと思ったときにキリル系の文字に恐れを抱かなかった程度です。

 やはりその頃、同僚が空気ばね高さ自動調節弁のテストを担当し、まとめに苦戦しているのを見て、大学時代に習った自動制御の講義を思い出しながら、非線形要素の等価線形化を含む制御系としてレポートを代筆しました。代筆がばれて係長から他の人が理解できないようなレポートを書くなと叱られました。それからしばらくして、課長から課員向けにラプラス変換の講義をするように指示され、本を買って改めて勉強し直して講義しました。これは後に私の仕事の基礎として非常に役に立ちました。
 最初の論文が掲載された頃、大学卒業後6年目に大学に行って勉強する機会が与えられました。それまでの研究とは全く関係のないテーマで委託研究員として1年間大学院生と一緒に勉強し直して2番目の論文をまとめました。大学への派遣については前述の係長と課長には大変面倒を見て頂きました。
 会社に戻ったときにはまた別の仕事を担当することになり一から勉強し直しました。いろいろな仕事をやってきた結果として、それから数年間毎年のように自動車技術会誌にいろいろな分野の記事を載せることになりました。原稿記事書きに忙しくなりましたが、文章を書くのに慣れてその経験が後に論文の早書きに役立ちました。

 三十才前後で日本機械学会の機械力学委員会委員を二年間務めさせていただき、当時一流の学者の方々から直接いろいろなお話を伺うことができました。また自動車技術会強度委員会に会社からの委員として参加し、自動車負荷計算基準の作成、改訂に参画しました。これも非常によい勉強になりました。その後も強度委員会の委員に十年以上在任し、自動車他社の方々と実務的な内容について親しく意見を交わすことができました。

 こう書いてくると常に何か努力を続けてきたかのように見えますが、そんなことはなく大方は時の流れに身を任せていました。ただ時々はっとして何とかしようと思い立ち、自分に届きそうな目標を立ててそれなりに力を注ぐというやり方をしていました。他の人からチャンスを与え頂いてそれなりに努力したこともあります。

 しかし、苦手なものはやはり避けて通ってしまったようで、会社の出張で海外に行く機会も何回かありましたがそれ以上の努力はせずに過ごしてしまい、残念ながら英会話は今日に至るまで不得意です。大学の教員になってから、教員(研究者)として欠けている能力の一つだと感じました。自分の経験から苦手でも必要なことは生涯教育の一環として若い内に是非克服しておいて頂きたいと思います。