LastUpdate 2015.8.12
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No.139 「機械屋の経済論」日本機械学会第93期企画理事
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私の専門はエネルギー研究であるが、エネルギーを対象にするとコストが必ずつきまとってくる。どんなに素晴らしいエネルギー技術を発明しても、出てくるものは電気か熱であり、付加価値に変わりはない。そこでものを言うのはコストということになる。私はなんとか再生可能エネルギーをベースとする社会を形成できないものかと長く考えているが、現在の発電技術に比べてコスト高となり、通常の概念では受け入れられないことになってしまう。そこで、次第に「コストが高くてはいけないのだろうか」と考え始めるようになった。そのうち私なりの経済論が出来上がり、そうした視点から見ると、現在当然と考えている自由競争社会の危うさを感じるようになって来た。私たちはまさに失業者を作る競争をしているように見えるのである。以下に私の素人経済論を披露することにしよう。
ひと昔前は生産性に比べて市場が大きく、作れば売れた時代であったのに対して、現代では生産性が著しく増大しており、飽和した市場の争奪戦を行っている状態にあると言える。ここでコストの起源を辿ると、材料費やエネルギーコストを含めて全ての工程における人件費に帰結する。鉄や石油自体はお金を受け取ることは無く、その生産に関わった関係者に渡っているのである。そう考えると、コスト低減競争とは雇用減らし競争ということができる。例えば、生産のすべてをロボットが行えるようになるとどうだろうか。生産プロセスにほとんど人がいらなくなってしまうことは明らかだ。生産現場から追い出された人たちを受け入れるだけのサービス産業があれば問題ないが、とてもそんなにサービス分野の受け皿は広くはない。
企業や家庭、学校、個人、行政等の各種事業主体はサービスを提供し、その対価を受け取る関係にある。これを2人の間の関係に単純化して考えると、2人は互いにサービスを提供し、その対価を受け取るキャッチボールをしていると解釈される。このキャッチボールを繰り返すことによって、互いにサービスを提供し合い、お互いが豊かになれることになる。この間、いずれも労働を提供し合っているので、互いの資産を食いつぶしていることにはならない。また、コストは結局自身の給料となるので、安さを追求する必要もない。相手から安くものを買えると一瞬嬉しくなるが、次に相手は私から物を高く買うだけの資金が無く、安くしか買ってくれないのだ。すなわち、単純に考えると、商品の購入価格と自身の給料とは裏腹であることに気づく。このように考えると、経済の豊かさとはこのキャッチボールの回数が多いことが大切であり、コスト自体は問題にならない。このキャッチボールを継続するには、皆に雇用が必要なことになり、この中で失業し、キャッチボールの輪から除外される者が出てくると次第にその輪がしぼんでいくことになる。したがって、コスト低減競争・人減らし競争を促進すると、次第にこのキャッチボールの輪が縮小し、経済全体が不活発となってしまうことが理解できる。
海外貿易は為替レートが介在するために国内経済とは同一とはならない。すなわち、輸出を強化し、一時的に豊かになったとすると、為替レートが円高側にシフトし、輸出入のバランスが取れるように自動修正される。その結果、輸出能力の高い産業は一時的に栄えるが、輸出競争力の弱い分野の輸入が拡大し、対応する分野の国内産業が縮小することになる。すなわち、国内の栄える産業種別が変わるだけで、国全体としては繁栄した経済状態にはならない。そもそも貿易は自国に無い物を輸入するところに意義があるのであって、必要以上に輸出を拡大しようとする行為は必ずしも好ましいとは言えない。したがって、経済の基本は極力地域内でお金のキャッチボールを行うことを目指すべきと言える。
そこで、風力発電や太陽電池による再生可能エネルギーインフラ作りはコスト高ではあるものの、インフラ製造、設置およびメンテナンスに地域住民が関われるのであれば、雇用が生まれサービスの提供とその受益のキャッチボールが成立することになる。しかも、長期的にはこれまで海外に流出していたエネルギー資金が国内循環に向けられるので、その意義は大きい。さらに、エネルギーコストの増加は最終的に為替レートでうまく調整されることになる。
私はこうしたエネルギーの地産地消概念を「エネルギールネサンス」と名付けており、再生可能エネルギーを主体としたエネルギーインフラ作りを推進することによって地域経済を活性化し、むしろ国力強化のチャンスに変えることができると考えている。素人の経済論であるが、これまで経済学者を含む様々な場で披露しているにもかかわらず、根本的に間違っているという反論はまだ頂いていない。