LastUpdate 2013.12.4


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No.120 「コンストラクタル法則とエントロピー極大をめぐって」

日本機械学会第91期企画理事
木村繁男(金沢大学 環日本海域環境研究センター 教授)

木村繁男

 今年の2月ころ、昔の指導教員だったDuke大学のBejan教授からメールが届き、彼が新たな物理法則として提唱している「コンストラクタル法則」に関する本が日本語に翻訳されるので、翻訳者から問い合わせがあったら相談に乗って欲しいとのことであった。指導教員にはいつまでたっても頭が上がらないもので了解の返事を送っておいた。6月に出版社から完成した翻訳原稿が送られてきて、同時に解説文の依頼もあった。Bejanが15〜16年前から盛んに「コンストラクタル法則」を提唱していることは知っていたが、これまで彼の著書を真面目に読んだことがなかった。丁度良い機会と思い、最初から最後まで付箋をしながら読んでみた。一般読者を対象にした啓蒙書なので、比較的読みやすい本である。私はまず彼の情熱に圧倒され、次に彼の文明の進歩に対する楽天的な信頼に素朴な安心感を覚えた。今回初めて知ったが、このコンストラクタル法則はノーベル化学賞受賞者イリヤ・プリゴジンの熱力学に関する講演への反論として生まれたということであった。冒頭の記述は、さすが当代随一の熱力学第二法則の闘士である、彼の面目躍如という感じである。コンストラクタル法則とは「有限の流動系が時間の流れの中で存続するためには、その流動系の配置は、流動抵抗を低減するように進化しなければならない」と定義される。Bejanはたったこれだけの原理によって、自然界に見られるあらゆるパターン、たとえば肺胞の構造、樹木の形、流域の形成などを予測して見せる。さらにその適用は生物、社会構造、文明の進化にまで及ぶ。一般に物理法則は数式により表現される場合が多いが、この法則は言葉で語られている。しかし、熱力学の第二法則を例にとって、物理法則はまず言葉で表現されねばならないと主張する。クラウジウスによるエントロピーの発明はカルノーほどに偉大ではなかったというわけである。

 非常に基礎的な現象である、下方加熱・上方冷却による矩形空間内で発生するレイリー・ベナール対流の流動パターンが、この系を支配しているパラメータを固定しても複数個存在することは、その方面の専門家には良く知られていることである。しかし、優先的に選択されるパターンはエントロピー生成が大きいもの、すなわち下面から上面へ輸送される熱流量が最大のものであると主張するのがマルカスの仮説である。私も数値計算でこの仮説の妥当性を調べたことがある。実際には初期値というかヒステリシスが効いてきてあまりすっきりとはしないが、この仮説は誤りでないという感触を得ている。浮力効果が大きくなるにつれて対流セルが縦に細長くなることはコンストラクタル法則からも導かれるので、どちらも同じ結果を予測することになる。いま地球物理の世界ではどちらがより本質的な原理なのかで議論になっているという。どちらも一つの仮説にすぎないような気もするのだが。エントロピーは、馴染みのある物理量であり、それが極値を取る方向に熱力学的状態や化学反応が進行することがよく知られているので、一般にはマルカスの仮説の方が受け入れやすいものと思われる。コンストラクタル法則は、現象についての直観的洞察が必要で、Bejanのようにこの能力に秀でてないとなかなか使いこなせない。

 8月下旬に、この翻訳本は「流れとかたち」(紀伊国屋書店)というタイトルで出版された。それから暫くした10月の中ごろに、この本を読んだ一人の読者(ここではA氏としておく)からメールが届き、京大数理解析研究所の集会「函数解析学による一般化エントロピーの新展開」で最近発表したという論文が添付してあった。メールに簡単な自己紹介があり、「最近まで自衛隊の医務官だったが、思うところがあり退職、現在は天下の流れ者」とあった。A氏のメールは「流れとかたち」の第9章にある「黄金比」についてのコメントであった。A氏の主張するところは、黄金比(=1.6180・・・・)は「エントロピー最大」から説明できるというものである。A氏は数年前に、フィボナッチ数列の研究会である日本フィボナッチ協会で黄金比とエントロピーの関係について発表し、それが情報理論の研究者の間で知られるようになり、今回の京大数理解析研究所での発表になったそうである。フィボナッチ数列と黄金比(フィボナッチ数列の隣り合う項の比が黄金比となる)は自然現象の中に数多く見られるという。A氏の論文や、関連する先行論文をBejanに送ってみたところ、Bejanは数学の世界で黄金比についてこれだけ多数の研究があることを知らなかったようであった。しかし、彼の関心は、なぜ人間は黄金比を求めるのかにあって、1.6180・・・の数学的背景ではないということで、結局二人の議論はかみ合わなかった。

 それにしても自衛隊医務官(いわゆる軍医)の方がなぜエントロピー極大に職を投げ打ってまで入って行こうとするのか、そちらの方が私には大きな謎であった。この問いに答えるように、何度目かのメールに「軍事と医療の境界現象(トリアージ)について」(軍事史学49巻3-4号)という論文が添付されてきた。トリアージ(選別治療)というのは災害現場での医療手法として、最近ではメディアに取り上げられることもある。しかし、もともとは戦闘現場での医療をどのように実施すべきかという、軍事医療に由来するものである。戦場で多量に発生する傷病兵をどのように扱うかについては二つの考え方があり、一つはルソー的待遇と呼ばれ、戦傷者は自然状態の人間に戻ったと見なされ、敵味方の区別なく治療の機会を与えられるべきとするもの。もう一つはナポレオン的待遇と呼ばれ、戦傷者も戦力とみなし、軽傷者を優先的に治療して、できるだけ早く戦線に復帰させようとするものである。このナポレオン的待遇がトリアージの一種である。ドイツ軍はトリアージにより、軽傷者を優先的に治療した。これに対して旧日本軍、米軍は伝統的にルソー的待遇を重視したということである。ただ、戦況が悪化すると、変質が起こり、日米両軍でもトリアージが実施された形跡があるとも述べられている。A氏の思想的葛藤は、多量の戦傷者と混乱の中で、どのように治療を行うべきか、またその治療方針はどのような根拠により正当化されるべきものかということであった。それは戦場医療倫理を何に求めるかという問題である。素朴な人道主義ではもはや対応しきれないとき、現場の医務官には冷徹な決断が求められる。何が正義であるかについて、確固とした信念を堅持しなければならない。そこでたどり着いたのが「散逸構造」ということらしい。世界の森羅万象は「散逸構造」であり、進化というプロセスをたどった結果として現在も存在している。したがって、世界の存在を肯定するならば、その進化のプロセスに沿うもの、存在し続けるもの、生き続けるもの、淘汰されず増殖するものを正義として認めようというわけである。やや飛躍があり理解し難い点もあるが、いずれ死ぬことが分かっている重症者は安らかに眠らせても良心の呵責に苦しむべきでないということだろうか。この「散逸構造」に思いを巡らしているうちに、系の構造が安定するためにはエントロピー極大が必要条件ということになったという。

 A氏のトリアージについての議論はともかく、このような形而上学的苦悩から職を辞して、冒険的人生を歩もうとしている人がいるということは驚きであった。同時に日本もなかなか捨てた国ではないなという気持ちになり、私自身大いに勇気をもらった次第である。

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