LastUpdate 2013.2.6
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No.112 「映画『長州ファイブ』から技術者雑感」日本機械学会第90期常勤理事
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以前から「技術者」が、TVドラマや映画の主人公としてほとんど活躍して来ていないから、工学離れが進み、技術者の地位が低いのだと指摘があり、気にかけてきた。
最近、大橋秀雄元日本機械学会会長(東大名誉教授、元工学院大学理事長)の「JABEEのあゆみ」の記事中で一箇所が気になった。「……わが国における技術者の使われ方は千差万別である。ノーベル賞を受賞した田中耕一さんが技術者と呼ばれるのは誇らしく思うが、技能五輪のメダリストも技術者、テレビや水道の修理のために駆けつけてくれる人もおしなべて技術者、ミュージカル・ミスサイゴンの主役に至っては、抜け目なさ、器用さをもじったあだ名としてエンジニアと呼ばれている。……テレビを見ていて技術者という言葉が出てくると、思わず意識がハイになる。多くの場合“違うぞ”と叫んでしまう。……」(1)いささか長い引用であるが、現在の日本語では、「技術者」が、高度専門家から、広く大衆的・日常的な作業者まで技術者という括りで語られている。明治の初期に、福澤諭吉等の先達等は膨大な英語を和訳(漢字化)し定義する中(2)でengineerを技術者と訳された。その本来の語義で語られ、時代を切り開いた技術者(「サムライ・エンジニア」とも言われる)が幕末にいた。
長州ファイブ
(DVDジャケットより)
攘夷で意気盛んな長州藩の密命で英国に留学した5人(幕府留学生とは別)がいる。その史実を基に「長州ファイブ」(3)という映画が作られ、2006年に一般映画館で上映されている。現在もDVDになりレンタルでも視聴出来、その紹介はネットでの動画(4)や漫画にもなっている。その5人とは
志道聞多(後の井上馨):外務大臣等の要職を歴任
伊藤俊輔(後の博文):初代総理大臣、ハルビンで暗殺
遠藤謹助:大阪造幣局長、桜の通り抜けを発案
野村弥吉(後の井上勝):鉄道の敷設・普及に尽力、日本鉄道の父
山尾庸三:工部卿など重職を歴任、技術者で地味な存在
この映画では、一般社会向けに娯楽性も加味してかなり脚色されているが、ほぼ「通説史」に沿って冒頭から渡航前の薩摩藩による「生麦事件」を描写し、長州藩の主役等が加担した「英国公使館(品川御殿山)焼打ち事件」、渡航直前の横浜の牛鍋屋の情景、そして荷物扱いとしての渡航や言葉のギャップからの下級甲板員扱いの苦労、近代化された英国到着後の率直な驚きと留学生活を描き、資本主義産業社会発展の負の側面(貧困と売春、格差・階級の存在)も見落としていない(あの「マルクス」も同時代に混沌としたロンドンで「資本論」を書いている)。特に山尾が、グラスゴーのネピア造船所での徒弟修行と、夜間はアンダーソンズ・カレッジ(お雇い外国人で機械学会初代名誉員の「ダイアー」もここで学んでいる)で学業に勤しむ様や、大騒音の発生する造船所で聾唖者の活躍(手話)に接触した驚きのシーンが新鮮である(6)。これがきっかけで山尾は帰国後に、日本初の盲聾唖学校の設立にも尽力している。この映画の主役である山尾庸三(俳優は松田龍平)は、5年の留学期限を終え帰国時に明治維新を迎えた。江戸時代後期から次第に巨大な外圧に晒され、植民地支配の気配濃厚の中すべて劣勢な日本で、とりわけ技術の発展が欧米に対抗できる唯一の道であることを確信し、技術者として造船技術導入の他に、人材育成を念頭に「工部大学校」やその前身である工部省の「工学寮」設置を推進した。また、「日本工学会」の初期に会長職を36年間にわたり務めている(5)(6)(7)。
かれら5人の功績を称え、最初の留学先となったロンドン大学では“Choshu Five”の、日本でも山口市に顕彰碑が建っている。山尾庸三は1917年に没し、明治維新のフィクサー岩倉具視等と同じ品川の海晏寺に眠り、他の4人も、長州から離れた都心の墓地等に夫々葬られている。
歴史の背後にある闇
この映像を見ている限りは、面白い娯楽映画作品としての仕上がりになってはいるが、何故伊藤等足軽程度の若造が攘夷一辺倒から開国派へ急転したのか、巨額な留学費用を工面できたのは、背後の「英国やジャーディン・マセソン商会(ロスチャイルド家系)」のグラバー等が動いた事実や、当時アジアから日本への西欧列強の植民地化政策(エージェント養成説や5人を「マセソンボーイズ」の呼称も)の真の目論見までは触れられていない、権力簒奪を巡る熾烈な明治維新のほんの一部の表面的な描写で、商業映画作品の限界も見える(8)。但し、この映画は米国の「ワールドフェスト・ヒューストン国際映画祭第40回(2007年4月)」に、4000作品の中から、劇場長編映画部門のグランプリ(最優秀賞)を受賞し、国外からも評価を得てはいる。教科書等では全く記載が無いが、初代総理となった伊藤は維新の申し子なのか、政敵など自ら手をかけて殺した者も少なからずいることが判っている。若かりし山尾も伊藤と共にヘレンケラーにも影響を与えた盲人で「群書類従」で著名の総検校「塙保己一」の偉業を継いだ息子の忠宝(通称次郎)に手を下している(渋沢栄一証言)。先程の盲聾唖学校設立への尽力は、後の山尾の罪滅ぼしであったのかもしれない(9)。
最初の日本人の英国機械技術者協会(IMechE)入会者名簿
山尾等の作った「工部大学校」は、東京帝国大学工科大学に吸収される前の明治18年(1885年)まで7年間で211名の「技術者」を輩出し、殖産興業・工業力を高める役割に貢献している。また、多くの分野でその力に依存せざるを得なかった、西欧から官庸・私庸併せて延べ18,000人余りの「お雇い外国人」の指導・教授を抜きにしては、日本の近代化(富国強兵策など)は成されなかった(10)。工学寮工学校、工部大学校は、初代都検(校長格)が先のダイアーであり、彼の工学教育の理想の具現化が、当時最高の「チューリッヒ連邦工科大学」を念頭に、世界初の実践と理論を併せた実験モデル校に結実している。工部大学校卒業者の優秀な者は更に留学し、機械分野では、スチーブンソン等の設立した英国機械技術者協会(IMechE 創立1847年)の重要性を認識し、その会員や準会員などに加入している。1997年の日本機械学会創立百周年式典時にはIMechEからPam E. Liversidge会長(女性)が来日出席され、日本からの機械学会初代会長(当時は幹事長名)である眞野文二等のIMechE初期入会者16名の名簿を寄贈頂いている(11)。100年以上も前のこうした記録の保存管理に、本会と彼我の違いに脱帽せざるを得なかった。
これからの期待は
社会的存在である「技術者」が、19世紀の動乱期に限らず、その時代の内外の政治的動きに左右されるのは至極当然ではあるが、山尾やダイアーなどが、日本の近代文明社会の発展に大いに貢献してきたのは事実である。一方で技術の成果による急速な経済発展に伴うひずみ・環境破壊や戦争手段の高度化による甚大な悲劇、そして先の原発事故惨禍などをもたらしていることも事実である。これまでの技術革新による高度な文明化社会の中で、この先21世紀末には、地域性はあるものの人口は自然的に大減少が見込まれており、技術者に求められる次の期待は、多分「縮小社会」(12)に対応できる技術かもしれない。その時に本当に社会から「技術者」が期待され真に試されるかは、その新たなニーズを踏まえた、これからの活躍如何によるのではないかと思う。
11.IMechE(英国機械技術者協会)の日本人初期入会者16名の名簿