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No.95 「航空100年、日本の初飛行から『はやぶさ』まで」日本機械学会第88期広報理事
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2010年12月19日、その日は、徳川好敏大尉と日野熊蔵大尉が日本での初飛行に成功して100年にあたった。初飛行の地、代々木公園における記念式典が行われ、両大尉の長男(99歳と88歳)にお会いすることができた。100年間で技術は飛躍的な進歩を遂げたのであるが、両人にお会いし、100年が意外に短いものだということを感じた。
ライト兄弟の初飛行は1903年であり、欧米ではすでに何機もの飛行機が飛んでいたとはいえ、海外の飛行機を導入し、簡単に飛べた訳ではない。日本における初飛行はどのようになされたのであろうか。
1909年7月25日のフランスのルイ・ブレリオがドーバー海峡の横断飛行に成功し、日本にも飛行機の存在が広まった。政府にも飛行船や飛行機の導入を検討する研究会が発足した。そして、翼の揚力で人が飛べることを日本人が実際に目撃したのは、1909年12月の上野不忍池湖畔におけるグライダーの公開飛行であった。
このグライダーは、フランスの在京大使館武官ル・プリウールが中心となり、東京帝国大学で製作された。エンジンは無く、自動車でけん引しての飛行であり、現在の東大農学部キャンパスでの試験飛行の後、不忍池湖畔で公開飛行となった。2009年に、このグライダーの復元模型を当時の写真をもとに学生たちに作ってもらったのだが、翼は反りのない平板な構造であるものの、意外にも優れた操舵メカニズムを備えていることが分かり驚いた。このグライダー製作には、日本の航空工学の父と呼ぶべき田中舘愛橘(たなかだて・あいきつ)帝大教授が関わっていた。
東京大学理科物理学科を第1期生として卒業した田中舘教授の専門は地球物理学であった。日露戦争に際し、気球の研究に関わったことが航空研究とのきっかけとなり、1907年に、フランスで開催された国際度量衡会議に出席した際に、フランス製の軟式飛行船見学し、欧州の航空の研究に触発され、帰国後に小型風洞を自作し空気力学の研究を開始した。夏目漱石が1908年に発表した「三四郎」において、飛行の研究が話題に登場するのも、漱石の教え子であった寺田寅彦が田中舘教授の助手であったことと関係しているのであろう。「三四郎」の登場人物、野々宮は寺田寅彦がモデルと言われている。
田中舘教授は政府の研究会のメンバーでもあり、ル・プリウールのグライダーにエンジンを搭載して飛行機の研究を進めることを考えたに違いないが、このグライダーはル・プリウール個人の活動に基づくものであり、政府は、独力での開発ではなく、欧州からの導入を決めた。研究会のメンバーであった徳川、日野両大尉をフランスの操縦学校に1910年春から留学させ、田中舘にも欧州の飛行場の調査を依頼した。両大尉の内、日野大尉は日野式拳銃の発明もあり、1910年3月にエンジンも自作した日野式1号機で飛行を試みるほど技術に精通していた。徳川大尉は、操縦学校での訓練にも使用したアンリ・ファルマン機とブレリオ機を、日野大尉はドイツにおいてグラーデ機とライト兄弟機(ドイツでライセンス生産されたもの)を購入し、日本に船便で発送した。
1910年11月に横浜に飛行機は到着するものの、操縦学校では機体の整備を教えないため、飛行可能な状態にすることがまた大変であった。ここで活躍したのが、海軍造兵中技師として研究会のメンバーであった奈良原三次である。奈良原は東京帝国大学工学部造兵学科を卒業後、海軍で飛行の研究に従事した。1910年には自費で奈良原式1号機を製作し、フランス製アンザニ25馬力エンジンを搭載するが、推力不足で離陸には至らなかった。こうした技術者らのサポートもあり、12月にはアンリ・ファルマン機とグラーデ機は飛行の準備が整った。
田中舘教授の調査により、1911年には所沢に日本で最初の飛行場を建設する準備が進められたが、いち早く初飛行させたいとの関係者の熱意により、現在の代々木公園において公開飛行が実施された。これが日本での最初の動力飛行である。その後、国産機開発の機運も高まり、海軍を退役した奈良原は1911年5月5日、完成直後の所沢飛行場において私有のフランス製ノーム50馬力エンジンを搭載した奈良原式2号機の飛行に成功した。これが我が国の国産機初飛行と認識されている。日野大尉も日野式2号機を完成されるが、自作のエンジンが不調で飛行には至らなかった。一方の徳川大尉は研究会により会式1号機を完成し、フランス製のグノーム50馬力エンジンによって10月13日に初飛行に成功した。会式1号機はアンリ・ファルマン機を参考に改良が加えられた機体で、翼型にはエッフェルによる風洞試験の結果がいち早く採用された。エッフェルはエッフェル塔の設計で名高い土木技師であり、引退後、空気力学の研究に熱中した。田中舘教授によりその成果が日本に伝わったのだ。
エンジンの開発には、まだ基礎的な工業力が不足した日本であったが、機体に関しては世界に追い付く技術レベルを短期間で獲得できたことは驚異的であり、日本のモノづくりの巧みさを改めて実感した。奈良原は、民間での航空機製造を開始するとともに、千葉県稲毛に民間の初の飛行場を開設し、パイロットの養成にも尽力した。しかし、欧米機の導入を進めるという政府の方針は変わらず、せっかくの民間航空事業も腰砕けになった。こうした状況を憂いた田中舘教授は貴族院談話会において、寺田寅彦を助手として、「航空機の発達および研究の状況」と題する講演を行った。日本政府の実利的方針を嘆き、欧州の工業技術の発展はガリレオやニュートンらによる純粋な科学的探究が文明の源を養っているから達成しえたものであると主張した。
基礎研究の重要性を指摘した田中舘教授は、1918年に航空研究所を東京帝国大学付属研究所として、さらに教育の必要性から航空学科を1920年に同大学工学部に新設するのに貢献した。航空学科は戦後の閉鎖後、近年は航空宇宙工学科となり、航空工学および宇宙工学の人材を送り出し続け、航空研究所は第二次世界大戦後に宇宙航空研究所となり、現在、JAXA宇宙科学研究所に至っている。世紀の大飛行を成し遂げた「はやぶさ」の起源も田中舘教授にあったと言える。私たちの今の活動も100年後に影響を与えるということを心したい。
東大生の手で再現された日本初のグライダー(1909年飛行)