自宅から車で数分のところに日本機械学会が2007年に認定した機械遺産第10号「高周波発電機」がある(図1)。それは愛知県刈谷市に1929年(昭和4年)に建設された「依佐美(よさみ)送信所」に設置され、長波によるヨーロッパへの送信を日本ではじめに可能にした施設の心臓部である。この送信所から真珠湾攻撃の開戦を知らせる暗号電文「ニイタカヤマノボレ一二〇八」が潜水艦に向けて送信されたと言われている。この送信所は、通信用アンテナとして、かつて「依佐美の鉄塔」と呼ばれた高さ250mの8本の鉄塔を有していたが、2006年に解体され、送信施設の一部は記念館として、鉄塔は1/10の長さの25mに切断されて記念碑として残されている(図2)。このあたりは、現在は「フローラルガーデンよさみ」として市民の憩いの場として生まれ変わっている。2年ほど前に、何も知らずにこの記念館を訪れ、自宅からこれほど近くに機械遺産があったことに大変驚くとともに、日本機械学会会員として誇らしく感じた。
この機械遺産「高周波発電機」は2009年にIEEE(米国電気電子学会)のマイルストーン(電気・電子技術における歴史的偉業)にも認定された。2009年までに世界中で96件のマイルストーンが認定され、日本では11件が認定されている。2009年に「高周波発電機」を加えて3件のマイルストーンが認定された。他の2件は、フェライトの発明とその工業化(TDK、東京工業大学:1930年)と電子式テレビジョンの開発(静岡大学:1924−1941年)である。東京工業大学では、フェライトの発明とその工業化がマイルストーンに認定されたのを記念して、2009年10月13日〜20日に特別展示「フェライトの80年〜東工大とTDK 日本オリジナルの発明が世界的事業に〜」が同大の百年記念館で行われた。この展示のポスターには2人の人物が語り合っている写真が用いられていた。この2人はフェライトの父と賛辞される加藤与五郎先生とそのお弟子さんの武井武先生である。加藤与五郎先生はアルミナの発明によって得た資金(現在の数億円)を東京工業大学に寄付し、資源化学研究所を設立されている。加藤与五郎先生は刈谷市の出身で、奇遇なことに「依佐美送信所」から直線距離で800mほどのところに生家跡があり、その横の刈谷市南部生涯学習センターには加藤与五郎展示室(入場無料)がある。加藤与五郎先生は、日本のエジソンと呼ばれるほど多くの発明をされ、刈谷市名誉市民でもある。この展示室には藍綬褒章や文化功労者などに関する資料が所狭しと展示され、先生直筆の書も何点か展示されている。先生は数多くのお言葉を残されており、たとえば「進歩即創造」と独創にこだわられ、また「平凡なものを見たときに平凡と感じるのは、その事実が平凡なのではなく、見る者が平凡なのだ」と言われ、安易な帰結に終わっていないか自戒するばかりである。展示室入り口にも「創造は清い心から生まれる」と書かれたプレートがあり、先生のお人柄が良く表れていると感じた。展示物の中に長さ1mほどの「亀城小学校は吾が母校」と書かれた直筆の書がある。また奇遇なことに、実はこの亀城(きじょう)小学校は、私の母校でもある。刈谷市の広報誌平成13年1月1日号に「フェライトの父 加藤与五郎 〜今も息づく「創造」の魂〜」という特集があり、昭和39年に先生が母校の亀城小学校を訪れた際の写真が掲載されていた(このときに筆を取られたのであろうか?)。私が4,5年生の頃であり、校庭で先生のお話を聞いた記憶がかすかにあり、たぶんその時だと思うが「加藤与五郎賞」なる賞をいただき、乾湿計を副賞としていただいた(引越などの際になくしてしまったが、裏に加藤与五郎賞の墨書があったことを記憶している。ただ、何に対して賞をいただいたのかは全く覚えていない)。先生は(財)加藤科学振興会を設立され、現在も科学に関する技術研究への奨励や助成が行われている。
この書を見たら、私の母校でもある亀城小学校を訪ねてみたくなった。加藤与五郎展示室からは車で15分ほどの距離である。約40年振りであろうか。亀城小学校の名前は、ここにかつて刈谷城があり、亀城(きじょう)と呼ばれていたことに由来し、校章も亀をかたどった六角形である。同小学校のHPによれば今年度は創立136周年だそうである(私が在籍していたときに創立90周年を迎えた)。かつて校長室や職員室のあった鉄筋コンクリート製の玄関ポーチつきのおしゃれな建物が国の登録文化財となり、現在は「刈谷市郷土資料館」として利用されている(図3)。刈谷の文化遺産や歴史、民族資料が展示され、機織体験も行える。私が在籍した昭和38年(創立90周年)当時の亀城小学校のジオラマがあり、非常に懐かしかった。また刈谷城に関する資料もいくつかあり、興味深い。刈谷城の築城主は水野忠政で、徳川家康の生母於大はその娘である。於大は岡崎城主松平広忠と結婚し、翌年竹千代(後の徳川家康)を出産したが、刈谷城を継いだ兄信元が織田方についたため、今川氏の保護を受けていた広忠と離縁して刈谷城に帰ることとなる。その後、知多半島の阿久比城主久松俊勝と再婚したが、於大は、家康が織田方の人質となっても常に衣服などを贈って見舞ったと伝えられている。これにより、家康も天下統一の後には、於大を実家の者として迎え、久松家を親戚として尊重したと伝えられている。資料館には、於大の肖像画(伝通院画像)や松平家を離縁されて刈谷城へ戻る際に持ち帰ったと伝えられる天目茶台(三ツ葉葵紋)の写真が展示してあるが、これらは楞厳寺(りょうごんじ)の所蔵で、1594年に寄贈されたと寺文にあるとの説明文があった。楞厳寺は、刈谷城址の南約1.5kmのところにある曹洞宗の寺で、刈谷城主水野家の菩提寺でもあり、於大が、たびたび当寺を参詣したと伝えられている。奇遇なことにこの楞厳寺は我が家の菩提寺でもあり、父もここで眠っている。
刈谷城址は、亀城小学校から2,3分歩いたところにあり、お堀跡は池となって亀城公園と呼ばれる桜の名所となっている。子供の頃、この公園は私たちの庭であり、蝉をとって走り回ったり、林の中を探検したりしたものである。この公園の入り口には豊田佐吉翁の像がある(図4)。ご存知の通り、豊田佐吉翁は自動織機の発明者であり、豊田自動織機株式会社の創業者でもある。豊田自動織機本社はこの公園から車で4,5分のところにある。この豊田自動織機をはじめとして、刈谷市にはデンソー、アイシン精機、トヨタ車体などの本社があり、ものづくりの町である。亀城小学校近くにトヨタグループ各社が出資して設立された刈谷発明クラブがある。刈谷発明クラブは、全国の発明クラブの中で、最初に誕生したといわれている。さすがものづくりの町である。原則として土曜日と日曜日に開講され、子供たちの創造性を育むいくつかのコースが用意されている。毎年各種のコンクールに出品し、数多くの賞を受賞している。日本機械学会東海支部へご協力いただいたこともあり、工学離れを減らすためにも今後も指導を続けていただきたいと願っている。
機械遺産を振り出しに、いろいろな奇遇を重ねながら、加藤与五郎先生の展示室、そして吾母校の亀城小学校と刈谷市郷土資料館、豊田佐吉翁像などを約半日で巡った。非常にローカルな話題と私事に関することばかりで恐縮する次第であるが、「創造」「ものづくり」を育んできた刈谷市を紹介させていただいた。皆様も、お時間があれば、お近くの機械遺産を訪れて、このような奇遇を探して歩いてみてはいかがでしょうか。
図1 機械遺産「高周波発電機」と認定証
図2 依佐美送信所(この中に機械遺産が設置されている)と鉄塔
図3 かつての亀城小学校玄関(現在は刈谷市郷土資料館)
図4 豊田佐吉翁像
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