九州の長崎出身の私は子供の頃、夏休みになると、多くの小学生がそうであるように、鼠島の遊泳学校に通っていた。電車と船のフリーパスの木札を首にかけ、おにぎりの入ったバスケットとタオル入れの袋を下げて、兄弟や近所の友達と毎日鼠島に行く。男子も女子も真っ黒に日焼けしていた。路面電車で港まで行き、鼠島までは20分程の船旅だった。あまりかっこよくない焼玉機関の船でエンジンの上部にある鉄の玉をバーナーで焼いて起動する。機関士が手際よく作業するのを機関室の天井の窓から飽きもせず眺めていた。エンジンを焼くバーナーの「ゴー」という音、バーナーを止めると暗い機関室に浮かび上がる赤く焼けた鉄の玉、力強く正確なリズムで回転を始めるエンジンの音、機関室の油の匂い等が鮮烈な思い出として残っている。
港を出た船は、やがて三菱重工の長崎造船所の前を通る。当事、長崎造船所は世界一の進水量を誇る眩しいほどの工場だった。港に浮かぶ見上げる程の巨大なタンカー、船台で建造中の船で輝く電機溶接のアーク、ハンマーの音、クレーンに指示を出す手旗信号等、胸がときめく光景だった。
鼠島は長崎港の入り口付近にある周囲1km程の小島で、半周が普通の海水浴場、残りの半周が遊泳学校になっていた。鼠島一周を泳ぎきることが仲間の目標だった。一日中、泳いだり、魚を追いかけたりして疲れ果てて帰途についても、焼玉機関の観察は欠かせなかった。
小学校を卒業したら神学校へ進み、神父になって欲しいとの祖母の申し出を断った。いつの日か造船所で働きたいという想いがありエンジニアになることを志した。それから12年後、大学院を終えて三菱重工に就職し長崎造船所で発電用ボイラの設計に携わった。船ではなかったが重工業らしい巨大な発電所用ボイラの設計に没頭する日々が続いた。その後、研究所に移り、現在、新技術の開発と事業化の仕事をしている。
これまでを振り返ってみると、重要な進路選択の際、小学生の頃の夏休みの体験が大きく影響していると思う。全身が好奇心の塊である頃、何を伝えることが出来るか?機械学会では大人の研究者ばかりでなく、ジュニア会友として、小・中学生の教育にも力を入れている。この努力が機械工学を志向する学生を増やし、日本の将来を担っていくことを期待して止まない。
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