LastUpdate 2009.1.29

J S M E 談 話 室

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JSME談話室「き・か・い」は、気軽な話題を集めて提供するコラム欄です。
本会理事が交代で一年間を通して執筆します。

No.73 「技術者が新たな時代を担う」

日本機械学会第86期財務理事
木下 明生(日産自動車(株)モビリティ研究所 所長)


 米国金融市場の混乱に始まる急激な経済情勢の変化に伴い、昨年の秋口から世界中大変な状況になっています。各国政府や企業は緊急対応に走っている最中で、これを読んでおられる皆さんも多かれ少なかれ何らかの影響を受けられているのではないでしょうか。ここ数年をしのぐ施策をすぐにも打ち出さなければなりませんが、それに加えて今回の事態に対するきちんとしたレビューがなされ、反省に基づく新たな仕組みや体制づくりが今後模索されていくことと思います。その見通しについてはいろいろな意見が既にさまざまな場で示されていますし、浅い考えをここで述べても参考にならないと思いますが、今回の現象のただ中にあって改めて感じたことがあります。それは「世界は文字通り一つになっている」ということです。さらには、そのような世界に対する技術者の影響力について思わずにはいられませんでした。
 よく言われることですが、世界のどこかで起こる事象は即座に電磁波の速度で伝播し、それに対する種々の反応が同時的に起こるようになってしまっています。この全体システムのダイナミクスが極端な応答を引き起こすとき、緩和したり接地させる手段が無いか極端に乏しいというのが、今回起こっていることの背景にある現状ではないでしょうか。この事態に関わる技術の一つに金融工学なるものが存在しています。ブラック−ショールズの式と呼ばれる妥当なコールオプション価格を導く方法がよく知られていますが、これを見ると何やら拡散方程式と同じように見えますね。よく勉強せずにいい加減なことを言ってはいけないのですが、想定価値(とリスク)がどのように広く負担されるのが適正かを推定する考え方に関係付けられるのではないでしょうか。
 バーチャルな取り引きに安易に新しいもっともらしい理論を投入して欲望拡大を促進したりするようなことはだめだとか、やはりモノづくりに徹せよというようなことを言いたいわけではありません。既に世界はこのような理論やいろいろな仕掛けを介して全体が一つに統合される方向になってしまっていること、経済全体のダイナミクスを駆動するグローバル資本主義に対して根本的な修正を迫る別の原理が見当たらないこと、技術者もこの環境の中で無関係ではいられない、ということを改めて考えさせる一つの例だと思うのです。
 このような、物理的な実体を必ずしも伴わないようなシステムを含め、世の中はすべからく技術者が作っていると言っても過言ではないと思います。ギアの歯面や表面処理といった基本中の基本の要素から、社会の基幹インフラストラクチャーになっているような大きなシステム、また情報ネットワークを含めた金融システムといったものまでです。これらの要素やシステムを具体的に設計し、動作を予測し、あるいはトラブルシュートしたり適切なメンテナンスや更新の計画を策定するなど、技術者抜きには明らかに不可能です。こうした一つひとつのどれか一つでも不具合があれば、結果としてシステムは正しく作動せず、予想外の問題を起こすことにもなります。専門家というものの存在が従来以上に重要になっています。先日ホワイトハウスの電子メールがダウンしました。世界中に大変な影響を及ぼしかねない故障ですが、これも技術者しかシステムを理解しておらず、修復することもできないことかもしれません。
 技術者はここ数十年の間に、特に情報革命以降、われわれ自身がそう意図したかどうかは別にして、社会的に極めて大きな影響を及ぼすような様々なものに深く関与する存在になりました。一つの不具合はかつて単独の機械としてその場だけの問題で対応可能であったかもしれません。ところが今は大規模システムのダウンなどあっと言う間に広範囲に影響してしまうケースが増加してきました。世界中が一つになった環境下では、その傾向はますます広がるでしょう。
 もちろんリスクの面だけでなく、ネットワークの中に技術が組み込まれてきたことで、生活の価値が大幅に向上したことも明らかです。単独の機械のより良い性能やより高い品質といった価値は揺るぎがないものの、その機械がネットワークとリンクすることによって、全く新しく広範囲の価値を爆発的にもたらすようになってきています。例えばゲーム機が移動型情報端末となりつつありますが、それにより顕在化してきた新たな価値の世界はまだほんの一部でしょう。さらにそうしたものと既存の機械システムの融合によって、昨日想像もしなかったことが、今日新たに提供されているような変化は、今や日常化しています。
 繰り返しますが、このような新しい価値の展開もすべて技術者の手を通じて作られています。この当たり前のような事実は、新しい技術を作る技術者は、その新しい技術がもたらす新しい価値についての想像力をより強く求められるということを意味していると思います。個々の機械要素やシステムについて、その性能や品質を向上する努力が技術者の根幹であることに変わりはありませんが、もはやその実践だけでは不十分だと考えるべきかもしれません。その技術がもたらす新しい価値やリスクを描出し、提案する力も求められているのではないでしょうか。
 筆者が大学を出て技術者としてのスタートを切ったころ、体系化された技術知識の修得やその適用実践の訓練を受けました。そしてそれこそが仕事のアウトプットの付加価値を決める最大の要素だったと思います。こうした基礎技術力の重要性は今でも変わらず、必須であることは間違いありません。しかしながら今後の社会にもたらす付加価値のソースとしては、新しい価値自体を発想することや、それを理解、共有して新たな流れを力強く作るといった能力が、よりはっきりと要請されることになるでしょう。
 少し偏った見方かもしれませんが、かつてはどのような価値を生むかというビジョンは専ら文系の人間が作っていて(理系、文系と言う区分けも日本のあまりよろしくない固定概念のように思いますが)、機械工学の技術者など理系の人間の役割は、破綻なくそれを実現するといったレベルにとどまる傾向があったかもしれません。
 ところが技術がもたらすことの広がりや革新性が加速度的に膨張しつつある現在は、その技術についての十分な理解を持ちつつ、その上で新たな価値を自ら描く役割を果たすことまでも期待されていると思います。具体的に提案するフロントランナーになり、責任も引き受ける役割は重大ですが、今後の社会においては技術の背景を持つ人たちでなければ十分には担えないのではないでしょうか。
 ではこうした能力はどのように個人や組織として身につけるのか、その方法論はまだ必ずしも明確ではありません。ますますグローバル化が加速する環境下であることを考えると、高い技術力だけでなく、コミュニケーション力やそれらを踏まえた多様な形態のチーム形成といった能力、そしてその中でアイデアを誘発し、新しい価値、技術づくりをシナリオ化する力など、実にチャレンジに満ちた世界になると予想されます。自分たちで考えて実践していかなければならないでしょう。
 今の厳しい経済情勢のトンネルには必ず出口があり、その先には技術者にとっては実にチャレンジに満ちた、それだけにエキサイティングな時代がやって来るはずです。新しい時代をどうするのか技術者自身が考え、提案する力をもっと身につけて、楽しみにそのときを迎え撃とうではありませんか。


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