ヴェトナム南部の高原にダラトという町がある。
ここを訪れたのは、今から8年前の6月のことだが、直前に滞在した北部のハノイ市では、酷暑という表現がぴったりの厳しい暑さに、北海道育ちの私は、辟易していた。
ハノイ市から空路2時間ほどの小さなダラト空港に降り立つと、爽やかな空気に、ほっとした。ダラトの町は、暑いハノイ市から、さらに千kmも赤道に近いのだが、標高1500メートルの高原にあるために、夏でも清涼な気候に恵まれている。まことに有り難かった。
ダラトは、一面の緑の畑とその中に明るい赤茶色の農家が点在するなだらかな丘陵が、幾重にもうねるように周囲にひろがっている。そこで収穫された花や野菜や果物が、市内の青空市場に毎日持ち込まれてくる。青空市場では、多勢の人が行き交っているが、客と売り手の間の会話は、談笑をしているような、穏やかな感じである。売り手の女性は、おしなべて、浅い円錐状の菅笠をかぶっている。
同じヴェトナムでも、ハノイ市やホーチミン市は、建築中の建物がいくつも目につき、道路は混雑し喧騒に溢れていて、国として自由主義経済に大きく舵を切ったことが実感できる。ダラトは、それらとは異なって、生気がある中にも、時間がゆったりと流れているような、安堵できる雰囲気がある。この町には、総合大学のダラト大学があり、町全体として、穏やかな中にも活気を感じるのは、そこかしこに、若い男女の学生を見かけるためかもしれない。市場で買い求めた南国の果物、ランブータンやマンゴスティンは、みずみずしく美味しかった。
このダラトの町に、ヴェトナムで唯一の研究用原子炉がある。小さな原子炉だが、ダラト原子力研究所の人々は、この原子炉の保全管理を大切に行いながら、国内の病院で使う医療用ラジオアイソトープの製造や、各種の基礎研究に活用している。
ヴェトナムの歴史は、ごく最近まで、周辺の国との戦いの歴史ともいえる。長い中国の支配からようやく独立国家を作り上げたのは10世紀の半ばのことだが、13世紀には、元軍から三度にわたって攻められながら撃退に成功した。
第二次世界大戦後、日本は戦争から遠のくことができたが、ヴェトナムは、フランス、米国などとの戦火に曝されてきた。その歴史を反映して、ダラトの原子炉は、南北に分断されていたときの南ヴェトナム政府時代に米国から提供されて1963年に稼働を開始したのだが、ヴェトナム戦争に米国が敗れて撤退した後、ソ連から核燃料を供給された。「あと、百年は、ソ連からもらった燃料で運転できる」と説明された。その後、1986年以降、国全体として自由主義諸国からの資本を多く受け入れて活発な経済発展が進みつつ現在に至っている。
原子炉本体の耐用年数は相当に長いものだが、新しい研究を行うには、新たな計測系などが必要になる。工業の発展途上にあるヴェトナムでは、必要な計器を手に入れるのはたいへんなことだが、ダラト原子力研究所の人たちは、一部を自分たちで手作りしたり、さまざまな工夫をこらしながら研究に取り組んでいる。そういう懸命の努力をしている状況は、日本の原子力研究が始まった頃を見ているような気がした。
このダラト原子力研究所で会ったほぼ全員が、日本原子力研究所・東海研究所(当時)に数ヶ月にわたって滞在し、研修を行った経験がある、と話された。皆が、日本における研修や日本に滞在したこと自体を、すばらしい経験だったと、嬉しそうに話してくれたのは、(この時には、産業界の或る企業に所属していたが)日本人として感動した。
ヴェトナムに比べると原子力の活用が遥かに進んでいる日本にとっても、原子力エネルギーや放射線利用のさらなる発展は必須である。現在、日本の総発電量の約三分の一を原子力発電が担っている。この原子力発電を支えている技術者のうち、原子炉メーカーの例では、最も多いのが機械系の技術者で、全体の実に40%を占め、電気・電子系20%、原子力系15%の2倍以上となっている。
日本機械学会が発行している原子力発電所の機械設備の構造設計規格は、日本の原子力発電にとって重要な規格であるが、標準・規格センターの発電用設備規格委員会において、数百名の技術者が参加して、この規格の新規策定や改訂作業が行われている。
さて、ヴェトナムを訪れた時には思いもよらないことだが、私は、ヴェトナムから日本に戻ってきてから数年後、ダラトの原子力研究所の人たちが嬉しそうに話してくれた、その東海村の研究所(今は、独立行政法人・日本原子力研究開発機構・原子力科学研究所)に、勤務することになった。ここでは、今も、ヴェトナムからの研修生を受け入れ続けている。経済発展途上にある東南アジアでは、医療用ラジオアイソトープのみならず、原子力発電所の建設を始めとする原子力の一層の活用が、当然考慮すべき重要な選択肢であり、日本が、先達として、この先も多くの支援を期待されている分野である。
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