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日本機械学会のリーダが気軽に話題を提供するコラム欄です。
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No.9『時代と風景の変遷』

東京大学 生産技術研究所
西尾 茂文

私は3歳頃から東京に住んでおり、その頃(昭和20年代後半)の東京の風景を刷り込まれているせいか、縁側、垣根、泥んこ道、小川、田畑、神社などに強い郷愁がある。縁側には犬が日向ぼっこしており、その犬は垣根を抜けて勝手に出かけてしまったものである。当時は「犬取り」(保健所)がいたのでずいぶんと心配させられた。泥んこ道を歩くのは大変であったが、小川にはザリガニやメダカがいて、いったん遊びに出た子供にとって帰るには決意の要る風景であった。母親にずいぶんと心配をかけたものである。無論、田畑には蛇や肥溜めという危険が潜んでおり、特に後者にはひどい目にあったものである。深い森の神社には子供の手の届かない神秘があったが、だからこそ神社での縁日はこの上ない楽しみであった。このように、私の原風景の中には人工的な要素がほとんど存在しない。私の心の中には、こうした自然的原風景が現存している。
 さて、そのころから50年を経た現在、血圧や血糖値の関係で月一回の通院を余儀なくされている。先日、通院先に向かう車の中からぼんやりと外を眺めていたら、変化の激しい現代の中にいて逆に「この風景、ずいぶんと変わっていないな」と不意に思った。信濃町駅近辺でのことであり、無論、信濃町の駅ビルが建ったのはそれほど前ではなく、したがって風景は確実に変わっている。私が「この風景、ずいぶんと変わっていないな」と感じたのは、風景を構成する要素が変わっていないと思ったのであろう。原風景への郷愁と停滞への焦燥とが交錯した瞬間であった。
 東京の風景の構成要素は、当然かもしれないが、あらかた高度成長期に出揃ったよう思う。風景が私の原風景から変わり始めた昭和30年前後の東京の風景の重要な構成要素は、舗装道路と泥んこ道、自動車と都電、宅地と田畑、ビルと日本家屋、コンクリート塀と垣根といった新旧日本を代表する二項の対立であったような気がする。その後、高度成長期に風景の構成要素は大きく変わって行く。昭和28年にはNHKの本放送が開始し、テレビが普及し始め、昭和33年には東京タワーが完成している。昭和29年にはカーフェリーが就航し自動車時代が幕を開け、昭和30年にクラウンが、昭和34年にはブルーバードが発表され、マイカー時代の幕を開いた。名神高速道路が開通したのも昭和39年であり、同年には東海道新幹線も開通した。昭和32年には東海村に「原子の火」が灯り、昭和33年には国産ロケット第1号の発射に成功し、昭和37年には13万トンのタンカーが進水し、昭和39年には海外旅行が自由化された。超高層・柔構造高層ビルの幕を切った霞ヶ関ビルが開館した昭和43年は、ほぼ高度成長末期に当たる。神社を除き、縁側、垣根、泥んこ道、小川、田畑などの私の原風景の構成要素は、高度成長期にあらかた東京から消えた。25年ほど前である。
 その後の25年間の風景変化が小さいと思ったわけであるが、風景の構成要素として新しく何が加わったであろうか? 25年間の間に加わった新しい構成要素は、コンビニやファーストフードレストランあるいはスーパーマーケットに類する量販店等と、携帯電話に夢中になる歩行者くらいではなかろうか。量販店等の進出や携帯電話の普及が技術開発や生活文化と関わりが無いと言うつもりはまったく無いが、心の中にしか存在しなくなった原風景への郷愁と、変化の少ない最近の風景への焦燥とが交錯する中で、今後の20年ほどの間の風景を変える要素を若い世代は何に見出すのであろうかと感じた次第である。

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Last Update 2003.1.14

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