1.はじめに
人は、五感の中で最も視覚に依存して行動する動物であると言われる。視覚をつかさどる感覚器官は言うまでもなく眼球であり、眼球は精密機械のカメラにも例えられる。眼球は、角膜と水晶体(レンズ)を介して、眼底の網膜に外界からの光線を結像することにより、脳に映像情報を伝えている。網膜はカメラのフィルムに相当するもので、眼底は網膜と脈絡膜等からなる複雑な層構造で成り立っている。眼底の異常は視力に直接影響することから、眼底を精密に検査することは、眼科の基本的な診断項目の一つである。また眼底は、血管の様子を外科的に切開することなく直接観察できる唯一の生体部位であり、内科的疾患の影響も現われ易いことから、眼底を診ることは昔から重要な医学検査法の一つになっている。
人の眼球の大きさは、眼軸長の平均値で約24mmであり、瞳を窓としたボール状の構造をしている。眼底の反射率は4〜5%以下とも言われ、眼球の構造を考慮すると、瞳を通して眼球に光が入射して眼底で吸収散乱が起こり、入射光の0.1〜0.01 %程度以下の光強度しか瞳を通って戻って来ない。これに対して、主に角膜表面において生ずる反射光の光強度は入射光の数%もあることから、瞳を通して人の目の眼底を観察することは簡単にはできない。日常生活で人の顔を覗いても眼底は見えないし、例えば通常のビデオカメラで人の目をクローズアップ撮影したとしても眼底は映らない。
眼底を光学的に観察する試みは、今からおよそ150年前に始まった。眼底を観察して検査するための装置はこの一世紀の間に大きく発展しており、本稿ではその歴史を振り返ると共に最近の進歩についても触れてみたい
2.直像鏡と倒像鏡
被検者(患者)の眼底を検者(医師)が直接観察することのできる最も基本的な装置は直像鏡と呼ばれ、1851年にドイツの von Helmholtz によって発明された1,2)。図1にその光学原理図を示す。光源Lからの発散光は、半透過鏡Mで一部が反射して、被検眼Sの眼底Xに結像する。眼底からの反射光は、半透過鏡Mを通過し、補正レンズ(ここでは凹レンズ)Cを通過して検者眼Oの眼底Yに焦点を結ぶ。これによって、被検者の眼底Xは検者の眼底Yに結像することになり、医師は患者の眼底を直接観察できる。この直像鏡の発明された当時は、今日のエレクトロニクス時代の様に高輝度の電球がある訳ではなく、光源として石油ランプやガス灯の光が使用されていたという。
図1,直像鏡の光学原理
Helmholtzが直像鏡を発明した翌年の 1852年には、Rueteが倒像鏡の基本となる装置を考案した1,2)。倒像鏡の光学系の原理を図2に示す。倒像鏡では被検眼Sの眼底からの光線が被検眼の前に置かれた凸レンズを介して像を形成し、検者はその空中像を観察することになる。倒像鏡のメリットは、視野が広く検者と被検者の間の距離を保てることであるが、観察倍率は直像鏡に比べて低くなる。
図2,倒像鏡の光学原理
これら19世紀半ばの直像鏡と倒像鏡の発明以来、20世紀の前半までには多くの改良が加えられた。今日の眼科臨床で実用的に使用されている検眼鏡は、当時開発された機械が基本となって発展したと言われている。
3.眼底カメラ(写真機)
直像鏡と倒像鏡は、医師が患者の眼底を観察できる様にした基本的な装置であるが、その取り扱いには熟練を要し、また画像を記録として残すには絵のスケッチが必要となる。眼底像を誰でも簡単に記録できる方式の開発が望まれていた時代背景の中で、銀鉛写真を利用した眼底カメラは 1920年代に登場した1,2)。最初の商業製品はドイツ Zeiss社の眼底写真機であった。当初の装置は、光源には炭素アーク灯が使用され、医用機械としても無骨な形態のものであったが、既に光学系の構成は今日の眼底カメラと近似していた。Zeissの製品は、その後複数の日本のメーカーが開発販売する様になった種々の眼底カメラの先駆けになったものと言われている。最近の眼底カメラは、当時と比べて、光学系やメカニズムとエレクトロニクスの改良により、画質と操作性等の実用性を限りなく向上させたものである。
図3に、眼底カメラの一般的な光学系の構成図を示す。観察用の光源としてはハロゲンランプが使用され、写真撮影時にはキセノンフラッシュランプが使用される。光源からの光は、投光光学系を介して穴開きミラーで反射して、非球面対物レンズを通して眼底に投影される。眼底からの反射光は対物レンズと穴開きミラーを通過し、受光系の結像レンズを介して写真フィルムに露光する。被検者の眼底像は、ヒンジミラーで反射してアイピースを介して検者が直接観察することもできる。実際の製品では、眼底カメラの光学系は、被検者の眼球に対してXYZの3次元方向に移動可能なテーブルに載せられ、かつ眼球の光軸に対して装置の光学系が所定の角度を付けられる様に調整可能なメカニズムを備えている。最近の眼底カメラでは、写真フィルムの代わりに、CCD撮像素子を用いて眼底像を電気信号として取り出す方式も増えて来ている。
図3,眼底カメラの光学原理
4.走査型レーザー検眼鏡
眼底カメラは、光学機械として20世紀の間に成熟した技術である。それに対して、走査型レーザー検眼鏡(Scanning Laser Ophthalmoscope:SLO)は1980年代になって登場した新しい眼底観察技術である3,4)。SLOは微弱なレーザー光を高速走査して眼球内に投影し、眼底からの反射光を光電子増倍管等の高感度な素子で検出して、画像をTVモニター上に形成する。SLOでは共焦点光学系の導入により、眼底カメラよりも優れた解像力とコントラストを実現可能であり、様々な発展も期待できる。
図4,走査型レーザー検眼鏡の光学構成
図4に我々が独自に開発したSLOの光学系の構成図を示す。光源には半導体レーザーや He−Neレーザー、または Arレーザー等が使用される。レーザー光の走査手段として、超音波光偏向素子(AOD)とガルバノミラーが、それぞれ15.75 kHzと60 Hz の走査周波数で使用されている。高速と低速の走査の組み合わせにより2次元的な走査が可能であり、またNTSC のTV走査方式に同期させることにより、TVモニター上にリアルタイムに眼底像を表示することができる。検出系の光路は、ハーフミラーによって二分割され、僅かにデフォーカスした共焦点開口(スリット)を介して二つの光電検出器で眼底からの光量を検出する。この二つの光検出器の出力信号を加算すれば通常の2次元的な眼底像となり、一方割算処理によれば、眼底の3次元的な凹凸像を検出して表示することもできる。
図5に、SLOで得られた眼底像の一例を示す。図5の(a)は通常の眼底像、(b)は割算モードによる3次元データ画像、(c)は(b)の画像をコンピューター処理して得られた眼底の凹凸を示す3次元グラフィック画像である。図5の(a)では、眼底の乳頭部から網膜血管が延びている様子を捉えている。それに対応した(b)の画像は、眼底の凹凸を画像の濃度の違いとして表示したものである。(c)の画像では、乳頭部の窪みと、そこから湧き上がる様に這い出ている血管の状況を立体的に表現している。この様な3次元凹凸像は、緑内障や網膜剥離、黄斑円孔等の重篤な疾患の精密診断や手術計画のために役立つものと期待されている。
図5,眼底画像の一例
5.将来への発展
近年の眼底検査機械は、特にエレクトロニクスとコンピューター技術の発展に応じて進歩しているところが大きい。例えば、眼底像に対してコンピューター画像処理技術やインターネットを利用した情報通信技術を適用することで、新しい様々な眼科診断の可能性が生まれている。眼底カメラでは、写真フィルムの代わりに高感度のCCD撮像素子を採用して、画像はコンピューターに取り込み記録するというフィルムレスの方式が時代の主流になってきた。眼底カメラは、従来の光学機械という位置付けから、もはや電子情報技術を多く取り入れた複合技術商品としての位置付けに変わりつつある。一方、SLOは、新しい走査型光学系とレーザー制御技術の実用化によって、従来の眼底カメラでは困難だった高解像、高コントラストの眼底観察と3次元計測を可能にした。SLOは、今後の眼科学における革命的な発展を期待できる魅力的な可能性を提示している。しかし、いずれの眼科装置であっても、基本は光学系が根幹をなす精密機械システムであり、画質は本質的に光学設計と光学用メカニズムの調整によって決まってしまう。また、眼底を観察する上では、眼球の光学系が常に機械の光学系の一部を構成しているという客観的な事実を忘れてはならない。今後21世紀に向かって、眼科の医療機械に要求される課題も一段と複雑なものになるが、更なる発展を期するためには、技術の本質と歴史的な潮流を考慮した新しい製品開発への挑戦が重要であると考えている。
参考文献
1) S.D.Elder, Ed., System of Ophthalmology, Vol.7, The Foundations of Ophthalmology, Henry Kimpton, London (1962).
2) 大塚任、鹿野信一編、臨床眼科全書、第7巻、大島祐之、 眼検査法、金原出版 (1969).
3) J.E.Nasemann and R.O.Burk, Eds., Scanning Laser Ophthalmoscopy and Tomography, Quint essenz, Munchen (1990).
4) K.Kobayashi and T.Asakura, "Imaging techniques and applications of the scanning laser ophthalmoscope," Opt. Eng. 34, pp717-726 (1995).
著者プロフィール
1982年 群馬大学工学部電子工学科卒業、 1984年 群馬大学大学院電子工学専攻修士課程修了、 同年、興和(株)入社、同社研究所等に勤務、 1996年 工学博士(北海道大学) 1998年現在、興和(株)電機光学事業部の開発部門にて 眼科向け光学医療機器の開発研究に従事、 日本光学会、応用物理学会、レーザー学会等の会員。
勤務先住所 〒431-2103 静岡県浜松市新都田1-3-1