1.はじめに
物質的に非常に満たされている現代社会であるが、「心の時代」といわれる21世紀を目前に控え、より快適な暮らしを目指してヒトの生理心理的状態を計測する試みが盛んに行われている。現代病とも言われている“ストレス”や、あるいは逆の立場から“リラクゼーション”や“癒し”などその対象はさまざまである。我々はホルモンの1つであるコルチゾルを指標としてストレスの計測を行っている。本稿では我々が行っているコルチゾルによるストレス計測、および香りがストレスに及ぼす影響について紹介する。
2.ストレスホルモンの計測
2−1 ストレスの定義
精神的な“ストレス”という言葉はもともと材料力学における“応力”と同じ語源であり、これに従うと生体が種々の外部刺激を受けたときの心身内部の現象を意味するのが妥当と思われる。ところが一般には心理的・物理的な外界からの刺激を指したり、あるいは刺激と生体の反応の両方を意味するものとして用いられることもあるため、本稿で用いるストレスという用語について初めに触れておきたい。ヒトをとりまく外界の物理的環境や人間関係などの心理的環境によって、心と体のトータルシステムという視点からみたヒトの内部環境が変化する。ヒトには本来、外界からの刺激に対して内部の環境を一定に保とうとする機能―ホメオスタシス―が備わっており、外界からの刺激によって生じた歪みを元に戻そうとする。我々は怒りや恐怖など不快な負の情動を伴って生じた歪みを対象とし、これを元に戻そうとする内部機能の変化をストレスと定義している(図1)。
図1 ストレスの概念
2−2 コルチゾル
外界から負の情動を伴うような刺激が加わると、視床下部―下垂体―副腎皮質、という系を介してホルモン分泌が昂進する。視床下部から分泌されるCRH(corticotropine-releasing hormone)が下垂体前葉を刺激してACTH(adrenocorticotropic hormone)の分泌を促進し、これを受けて副腎皮質からのコルチゾル(cortisol)分泌が昂進するというしくみである(図2)。ストレスと関連して分泌されるホルモンはストレスホルモンと呼ばれることもあり、コルチゾルもその1つである。通常は血液中で検出されるが、ごく微量ながら唾液中にも存在している。血液中のコルチゾルには血液中に含まれるタンパク質に結合した状態で存在するものもあるが、生物学的活性を有するのはタンパク質に結合していないコルチゾルである。唾液中のコルチゾルは、血液中の生理活性を有するコルチゾルの濃度に比例することが報告されている1)。ストレスなどヒトの生理心理状態の計測を行う場合、計測環境や測定装置などが被験者の心理的・生理的な状態に影響を及ぼさないことが重要な条件となる。この点、唾液による測定は測定時の被験者への負担が極めて少なく、計測に適した指標の1つである。
図2 コルチゾルの分泌と調整
2−3 コルチゾルの分析法
唾液中のコルチゾル濃度は10-12[pmol/ml]オーダーと極めて低く、高感度の分析が要求される。従来RIA(radioimmunoassay)による分析が行われているが、この方法はコルチゾルの標識として放射性物質を用いるため大がかりな施設や特殊な資格が必要となる。そこで我々はより簡易にかつ安全に分析を行うためにHPLC(high performance liquid chromatography)を用いた唾液中コルチゾル専用の分析装置を開発した。この装置は通商産業省工業技術院*からの委託を受けて開発したものである。より高感度の分析を実現するためにファンデーションなど粉体化粧品の開発技術を応用した専用のセミミクロカラムを使用しているのが特徴であり、廃液も少ない。またこの装置では除タンパクなどの前処理が不要のため、唾液を直接注入できるという利点がある。RIAとHPLCによる分析値は比較的高い相関(r=0.81)があり、またHPLCによる同一検体の繰り返し測定からデータの安定性も確認されている(データ未発表)。測定時の唾液の採取にはSALIVETTETM(Salstedt Ltd., Germany)という専用試験管を使用している。脱脂綿と遠心分離用の管がセットになっているので、脱脂綿を口に入れ唾液を染み込ませた後に管に戻し、遠心分離器にかけるという非常に簡便な方法で唾液を抽出できる。抽出した唾液は-20℃以下で冷凍保存して、分析にかける直前に解凍する方法も可能である。(*:正式名は通商産業省工業技術院の産業科学技術研究開発プロジェクト人間感覚計測応用技術である。)
2−4 コルチゾルの変動事例
コルチゾル濃度は、ラットに浸水負荷や拘束負荷を与えた場合など、生命が脅かされるような場面において急激に増加することが動物を用いた実験からわかっている2,3)。我々は、ヒトの唾液中コルチゾル濃度がストレス場面でどのような変動を示すのかを探るため、人前でスピーチを行った場合について実験を行なった4)。口頭発表会を行なった会社員を対象に発表前後の唾液中コルチゾル濃度を測定したところ、発表後に顕著な増加が認められた(図3)。さらに、発表当日のほか発表日直前の練習日と発表後日についても当日と同じ姿勢・同じ内容で疑似発表を行ってもらい唾液を採取したところ、練習日にも発話後に唾液中コルチゾルの増加が見られたが、発表後日の発話ではコルチゾル濃度はほとんど変化しなかった。また発表直前のコルチゾル濃度は、発表後日と練習日はほぼ一致していたが、発表当日は発表前から他の日よりも高い値を示していた。この測定では実験的に環境を作り出したのではなく、実際の業務の一環として口頭発表会を行なう機会のあった者を被験者としたので、発表当日のスピーチは本人にとってかなりのストレス場面であると思われる。実際、被験者の心理状態について唾液採取と同時に質問紙で調査した結果によると、コルチゾル濃度の増加は心理的な負担感を伴うことにより起こったものと推察できた。この事例のようなストレス場面において唾液中コルチゾル濃度は生理心理状態を反映する指標として活用できる。
図3 人前でのスピーチ場面におけるCortisol変化(文献4より引用) □:発表練習日,●:本発表日,▲:模擬発表日
3.香りの生理心理的効果
一方、香りがヒトの生理的・心理的状態に影響を及ぼすことは古くから知られていた。数多くの伝承や遺跡からの出土品からも、古来より宗教儀式の中で人々の気持ちを鼓舞させ、あるいは落ち着かせるために香料が用いられたり、薬として利用されたり、香りは経験的に効果的に活用されていたことが伺える。こうした伝承的・経験的な香りの使用に対して近年、香りの生理心理作用を科学的に解明しようとする試みが行われている。その1つとして我々は唾液中コルチゾル濃度を指標としてオフィス作業時における香りの影響を検討した5)。作業内容は文章の誤字チェックで、文章の題材には難解な哲学書か平易なファッション史を用いた。使用した香りは無賦香のプラセボの他に柑橘系とフローラル系の調合香料2種類である。各被験者はどちらかの題材についての作業中に、いずれか1種類の香りを使用した。コルチゾル濃度、心理的活性度、作業成績などを測定し、作業前から作業後にかけての変化を検討したところ、どちらの題材を使用した場合にも香り使用群はプラセボ使用群と比して増加する傾向を示していた(図4)。作業成績や心理的活性度は、哲学書を題材にした場合にはプラセボ使用群と比して香り使用群で上昇していたが、ファッション史を題材にした場合にはともに低下していた(図5)。このように使用した文章の題材によって同じ香りでも異なる影響を及ぼしており、この実験例では哲学書を題材として柑橘系の香料を使用した場合に、ストレスの指標であるコルチゾル濃度の増加が小さくかつ作業成績もよいという結果が得られた。香りを効果的に活用するためには、作業内容などまで加味した個々の状況に適した香りを適切に選択する必要があると思われる。また香りの臨床応用事例として、うつ病の患者に対する香りの適用なども行われている。うつ病の入院患者の病室に柑橘系香料の香りを漂わせたところ、抗うつ薬の投与量が半分以下に減量でき、うつ病の指標であるハミルトン評価尺度の点数も正常値にまで回復できたこと、香りの使用前には異常低値あるいは異常高値を示した尿中コルチゾルのほか免疫機能の指標であるCD4/8、NK細胞活性なども正常値の範囲へ移行したこと、などが報告されている6)。薬剤と香りを併用していくうちに薬剤の使用量をゼロに出来た例もみられ、心身ともに自然治癒力を高める事例として大変興味深い。
(a)
(b) 図4 文献照合作業時のCortisol変化(文献5より引用) (a)哲学書を題材とした場合,(b)ファッション史を題材とした場合
(a)
(b) 図5 文献照合作業時の作業成績の変化(文献5より引用) (a)哲学書を題材とした場合,(b)ファッション史を題材とした場合
図6 柑橘系香料併用時の抗うつ薬投与量の変化(文献6より引用)
4.おわりに
我々は唾液中コルチゾル濃度を指標としてストレスの計測を行っているが、日常生活の中でストレスを低減する手段の1つとして香りがあげられる。香りがストレスとどのように結びついているのか、そのメカニズムについては不明であるが、嗅覚はストレスや情動反応の中枢である大脳辺縁系と解剖学的に密接な繋がりがある。脳内の嗅覚経路としても、ニオイ物質を捕らえた嗅細胞の活動は嗅球へ伝えられた後、他の感覚系と同様に視床を経由して大脳新皮質の感覚領に至る経路のほか、視床下部や辺縁系へ嗅球から直接の神経投射が確認されている7)。さらに神経系・内分泌系・免疫系の中継点ともいえる視床下部とも直接繋がっているため、脳の構造からみても、香りは精神神経免疫学の視点からストレスなど精神的な影響を受ける疾患に対しても活用できる可能性を示唆している。ヒトの嗅覚においては、色の3原色のような“原臭”と呼ぶべきものがない、「くさい」を除いて香りを表現する専用の語彙がない、香りの印象が経験により大きく左右される、さらに嗅覚疲労を起こしやすい、など難しい点が多い。しかし嗅覚には未知の可能性が潜んでおり、ストレス状況下での香りの様々な効果を探索することで心身を豊かにする科学の分野が期待できる。
参考文献
1)Annals of Clinical Biochemistry, Vol.20, pp329-335, 1983
2)昭医会誌, Vol.50, No.1, pp67-75, 1990
3)Can.J.Physiol.Pharmacol., pp1448-1451, Vol.65, 1987
4)フレグランスジャーナル臨時増刊, No.15, pp209-215, 1996
5)日本味と匂学会誌, Vol.4, No.3, pp625-628, 1997
6) 脳と精神の医学, Vol6, No.2, pp199-202, 1995
7)Neuroscience Research, Vol.4, pp357-375, 1987
著者プロフィール
1993年慶応義塾大学理工学部電気工学科卒業.1995年同大学大学院生体医用工学専攻修士課程修了.同年,(株)資生堂に入社.同社ビューティーサイエンス研究所にてストレス計測、香りの心理的・生理的作用の研究に従事.日本味と匂学会,計測自動制御学会の会員.