東京農工大学工学部 棚澤 一郎
1.はじめに
筆者は,低温生物工学の歴史に造詣が深いわけでもなく,また特に歴史的なことに 興味を持って調べた経験があるわけでもないので,執筆者としてはまったく不適任だ と自覚する者ではあるが,とりあえず本稿のご依頼を受けてから泥縄式に勉強したこ とを書き記すことでお許しいただくことにしたい. ところで低温生物工学の範疇には,低温における生命現象にかかわるあらゆる工学 分野が含まれるであろう.しかし,その中で筆者がこれまでに興味を抱き,多少研究 らしきこともやってきたのは,生体の凍結保存(cryo-preservation)のみである. したがって以下の記述においても,凍結保存についての話題を中心としたいところで はあるが,それだけでは表題を偽ることになるので,若干範囲を拡げ,温度の測定や 低温手術などにも触れることにした.
2.温度の測定と温度目盛
筆者が小学生の頃,父から「低温とは体温よりも低い温度のことを言う」と教えら れ,成る程と納得した記憶がある.「温度」という状態変数は,現在熱力学によって 厳密に定義され,それに基づいた温度目盛が定められているが,元々はヒトの皮膚感 覚(すなわち皮膚表面下にある温覚・冷覚の受容器の温度刺激に対する反応)および 中枢感覚(大脳視床下部にある温・冷ニューロンの反応)に由来するものであろう. だから,温かい・冷たい,暑い・寒いという生理的判断は,ヒトの体温を基準とする ことになる. それと同時に,ヒトの身体の中で起っている諸々の物理化学的現象は,巧妙に作ら れた体温調節機構によってほぼ一定に保たれている正常体温の下で旨く進行するよう になっているから,逆に体温が正常値からずれることは,身体内に何らかの異変が生 じたことを意味する.ごくおおざっぱには額に手を当てて,より正確には体温計を用 いて,体温を調べようとするのは,ヒトという生体の状態のマクロな診断法として当 を得たものと言える. 体温がヒトの健康状態の一つのインディケータであることは,古くから知られてお り,医学の開祖と言われているHippocrates (460?〜377 B.C.)の著述の中にもその ことが述べられているようである.しかし,Hippocratesの時代には体温計はまだ無 く,体温は当然触診によって推測されていたであろう. また「温度」は,気候の変動や食べ物の調理・加工などに関しても,大昔から人間 生活に密接なつながりを持つものであった.気体を暖めると体積が増加すること,あ るい は体積の増加を抑えるには大きな力が必要なことはよく知られていた.紀元1世紀頃 のアレキサンドリアに住んでいたギリシャの数学者Heronの発明による一種の蒸気動 力式扉開閉装置は,中でも特に有名である.しかし,このような温度の変化に伴う物 質の状態変化を,温度測定に結びつけたのはGalileo Galilei (1564〜1642)が最初 とされている. 図1(Benzinger[1]より)は、Galileiの温度表示器 (thermoscope)のスケッチで ある.鶏卵ほどの大きさの球状部に長い細管のつながったガラス容器が,球状部を上 にして水の入った別の容器に垂直に立てられている.ガラス容器の球状部から細管の 上部にかけては空気が,細管の下方部には水が入っており,細管内の水と下の容器の 水とは連結している.当然のことながら,球状部の内圧は,細管部の水柱高さに相当 する分だけ大気圧より低くなっている.いまガラス容器の球状部を手で握ると,内部 の空気は暖められて膨張し,細管内の水柱を押し下げる.手を離せば水柱は元の高さ まで上昇する.こうして,細管内の水柱の高さは球状部の空気の温度を示すことにな る.これは今で言う気体温度計である.水柱高さと温度の関係を明確にして(大気圧 の補正も加えて),目盛を用意すれば,現代でも立派に温度計として通用する器具と 言えよう.
図1 Galileiの温度計
ところで,すべての客観的温度測定にあっては,温度に従って一義的に変化する物 理化学的過程(温度センサー)と,その変化が何度の温度目盛に相当するかを決める ためのいくつかの温度定点が必要である.現在自然科学の分野で広く使われている温 度目盛は,水の三重点を0.01℃ (273.16 K)と定めることから出発し,その高温側・ 低温側にそれぞれ数多くの定義定点を設けて目盛を刻んでいる.そして,その目盛の 刻みは,今から約250年前にスウェーデンの天体物理学者Anders Celsius (1701〜 1744)によって作られ,その後リヨンのChristinが改良した目盛,すなわち大気圧下 での水の凍結温度を0度,沸点を100度と定め,この間を 100等分する,いわゆる百 分目盛(centigrade)(あるいは摂氏度)をほぼそのまま踏襲していることは広く知ら れているであろう. しかし,温度目盛の創始者としては、Celsiusよりも少し古い二人の科学者の名前を 挙げる必要がある.一人は英国のSir Isaac Newton (1643〜1727),もう一人はグ ダニスク(現ポーランド)生まれのドイツの物理学者Gabriel Fahrenheit (1686〜 1736)である. 表1は,筆者がかつてロンドンの科学博物館を訪れた折に,温度計の歴史に関する 展示の中で見かけた温度目盛についての資料を書き直したものである.表1の中で, Newtonによる温度目盛は,現在われわれが用いている目盛とはかなり違ったものに見 えるが,Fahrenheitによる目盛(華氏)は,今でも英国・米国などでは日常生活の中 でふつうに使われている.この華氏目盛について特筆すべきことは,温度定点を決め るに当たってFahrenheitが着目した事象の中に,二つの生体関連のものが含まれてい るということである.その一つはヒトの体温,もう一つは血液の凍結温度(いずれも 表1とは別の文献による)であり,前者は100 V,後者は 0V に対応するものとされ ている.100 Vは 37.8 ℃,0 Vは -17.8 ℃に相当するから,いずれの値にも多少の 問題があると言えるが,それ以上に,生理的な状態に関連する熱的事象を温度定点に 選んだところが興味深い.
Newton | DeLisle | Fahrenheit | Reaumur | |
水が凍り始める温度 | 0 | 160 | 32 | 0 |
冬 | 1 | 154.5 | 37 | 2.3 |
春と秋 | 3 | 146 | 48 | 7.5 |
夏至の気温 | 6 | 132 | 63.5 | 14.5 |
人体表面の最も高温の部分 | 12 | 104 | 95 | 29.5 |
手をつけてちょうど耐えられるお湯の温度 | 14.5 | 92.5 | 108 | 35.5 |
手を入れて動かしたとき耐えられなくなるお湯の温度 | 17 | 81 | 121 | 41.5 |
融けたろうが固まり不透明になる温度 | 20 | 67.5 | 136 | 48.5 |
酒精がちょうど沸騰し始める温度 | 25 | 43.5 | 163 | 61 |
水が沸騰し始める温度 | 33 | 7 | 204 | 80.5 |
水が激しく沸騰する温度 | 34.5 | 0 | 212 | 84 |
生理学の中に温熱生理学と呼ばれる分野があり,そこでは人体への外部からの熱的 刺激に対するヒトの生理的反応が主な研究の対象とされている.前述のように,ヒト の体温自体は通常ごく小さな温度幅でしか変動しないから,測定に使われる温度計も (例えば体温計のように)数度の温度域が表示できれば十分であった.しかし,次に 述べる生体の凍結保存においては,大気圧下での窒素の液化温度である -196℃まで の広い温度範囲が問題となる.そして,この広い範囲の低温度域における生体現象に ついてはまだまだ未知の事柄が多い.
3.低体温手術と凍結保存
ヒトに限らず,あらゆる生物の生命活動は,温度と密接な関係を持っている.それ は,生命活動が生体内での種々の化学反応に基づいており,その反応速度が温度に強 く依存しているからである.温熱生理学の分野では,Q10値という指標を用いること がある.これは,ある化学反応のある温度tでの速度k(t)が,温度が10℃上昇した場 合に何倍になるかを表わすものである.すなわち, Q10=k(t+10)/k(t) ヒトの身体内でのエネルギー代謝については,Q10値は2.3〜2.5であると言われてい る.したがって,もしこの値が広い温度範囲にわたって一定であると仮定できれば, ヒトの体温が10℃下がったときのエネルギー代謝の速度は,正常体温時の40〜43 %,20℃下がったときには16〜19%に低下することになる.この数字の正確度はとも かくとして,体温の低下に伴い代謝活動が鈍っていくことは,恐らくすべての生物に 共通のことと考えられる. 上に述べたような事実については,今から300年以上も前の1683年にRobert Boyle(1627〜1691)が論文を書いており,その中で魚や蛙を短時間部分凍結した後 蘇生させるという実験の結果が報告されている(Rubinsky[2]による). 現在,低体温の利用は多くの医療分野で行われているが,その原理的根拠は上に述 べたようなところにある.1930年に印刷された,シカゴ大学東洋文化研究所発行の文 献によれば,低体温医療についての最も古い記録は,紀元前2500年頃のものとされる エジプトのパピルスに見られ,頭骸の複雑骨折や化膿した外傷の治療に冷湿布の使用 が推奨されているそうである(Rubinsky[2]による).現在の低体温手術の多くは,体 温を20℃前後に下げて行われているが,目的によっては0℃までのさらに低い温度が 利用されることもある(Chato[3], 阿曽・隅田[4]). しかし,生体組織の温度を0℃以下に下げると,細胞内の水が凍結する可能性が出て くる.細胞内にできた氷は細胞膜を破壊する.これを手術に利用するのが凍結手術 (cryo-surgery)であり,氷晶生成による障害を極力抑えながら生体組織を超低温状 態で保存する技術が凍結保存(cryopreservation)である.したがって,これら二つ の技術は,低温において起る相変化現象を,一方は破壊に利用し,他方は生命保持に 利用するという点で表裏一体のものである.また本稿では触れないが、食品などの凍 結乾燥とも密接な関連がある.なお,cryo-という接頭語は(超)低温を意味するにも かかわらず,邦訳では凍結という言葉に置き換えられている.これは不正確な訳語で あるが,すでにかなり定着しており,今さら変えるのは困難であろう.
3−1.凍結手術
英国の内科医のJames Arnottが1845年に発表した,癌治療のための凍結破壊の利 用に関する報告が,凍結手術についての論文として最初のものである(Rubinsky [2]). Arnottは,ブライン溶液を患部の皮膚組織に注いで凍結させた.その後,液体空気 が製造され,また貯蔵技術も進歩した結果,1930年から1940年にかけて凍結手術は 急速に普及した.しかし,1940年を過ぎると凍結手術の研究は急に停滞する. 1960年代になって,米国の外科医Irving Cooperと同僚のA. S. Leeが凍結手術用 の新しい道具を開発してこの分野に復活のきっかけをもたらした.Cooperらの道具 は,先端部を除いて真空断熱された金属管に液体窒素を循環させる方式のもので,彼 等はこれを用いてパーキンソン氏症の原因となっていた脳内組織の凍結破壊に成功し た. Rubinsky[2]によれば,凍結手術の普及のためには,(a)凍結領域の大きさを手術中 に確実にモニターし,(b)どれだけが実際に破壊されたかを知る必要がある.Cooper らの場合には,患者の震え(パーキンソン氏症の症状の一つ)をモニターすることに よって,間接的ながら手術の成否の目安とした.現在では,このようなモニタリング は,超音波画像やMRIなどのハイテク技術の利用と,生体組織内での凍結過程の生 体伝熱工学的数値シミュレーションの併用によって,はるかに進んだ形で行われるよ うになっている。 なお凍結手術は,近年日本においても多くの病院で実施されるようになりつつあ り,癌などの治療に効果を挙げている.特に,内視鏡と凍結子(液体窒素などを流す 凍結用のメス)を組合せた手術具が威力を発揮している.この手術具は元々米国で製 作されたものであるが,最近では冷凍機メーカーなどによる技術開発が急速に進んで いるようである(蔵本[5]).
3−2.凍結保存
前述のように,生体内でのエネルギー代謝にかかわる化学反応の速度は温度とともに 低下するから,生体を例えば -100℃以下という低温下に置くことができれば,原理 的には長期間の保存が可能である.ただしこの時,生体細胞が冷却に伴う物理化学的 あるいは生理学的変化により,回復不能な障害を被らないことが必要条件である. 詳しい説明は省略するとして,生体組織を氷点下まで(そしてさらに超低温まで) 冷却する際に起りうる障害(これを凍害という)には,大きく分けて二種類がある. 一つは,細胞組織内に発生する氷晶による機械的損傷であり,もう一つは電解質溶液 が濃縮された結果生ずる蛋白質の変成による損傷(塩害)である. このような凍害を回避するためには,対象となる生体組織を(1)急速に冷却し て,細胞の内外に氷晶をまったく作らせずに固化する,すなわちガラス化 (vitrification)する方法と,(2)適切な冷却速度を選んで緩速冷却し,たとえ氷 晶が生成したとしても,それによる障害が致命的なものにならないようにする方法の 二つがある. 原理的には当然(1)の方法が優れている.細胞の内外にある液相がそのままの形 で固化するからである.この方法を最初に試みて成功したのは,英国のBasil Luyetで 1937 年のことであった.Luyetは,細胞の凍結保存を成功させるには,凍結によって細胞内 の構成要素の配列をいささかでも変えてはならないと考え,それにはガラス化が唯一 の方法だという結論に達した. このようなLuyetの発想は確かに正しいが,現実への適用には困難がある.多くの液 体について,そのガラス化を実現するには,きわめて大きな冷却速度が必要だからで ある.このことと関連があると思うが,Luyetらが行った凍結保存実験では,実際には ガラス化が起っていなかったことが,後に何人かの研究者達によって確認され,また Luyet自身も自らの研究に対して否定的な見解を表明して,1960年代の後半に研究を 中止してしまった. 一方,緩速冷却による凍結保存技術を追求していた研究者達の中で,英国のErnest J. Christopher PolgeとAudrey Smith は,英国国立医学研究所に在籍していた 1940年代のある日,牛の精液の凍結保存実験中に,それまで加えていた糖液の代りに 誤ってグリセリンを加えた試料で実験したところ,保存状態がはるかに良くなること を発見した.これが凍害防御剤(cryoprotective agent, CPA)が使われ出すきっか けとなる大発見であった.これを基にして,Polgeらは緩速冷却と凍害防御剤使用によ る凍結保存技術の進展に多大の貢献をした(これらの功績に対し,Polge博士には 1992年に日本国際賞が贈られた). なお,初めは細胞組織の緩速冷却における凍害抑止に役立つと考えられていた凍害 防御剤は,その後ガラス化による凍結保存にも有効であることがわかってきた.それ は,グリセリンなどの凍害防御剤を高濃度で用いると,ガラス転移温度が上昇し,あ る濃度以上では氷晶発生のための均質核生成温度を超えるからであると説明されてい る(例えばFahy[6]).実際,現在では,赤血球その他の血液成分,骨髄細胞,精液, 受精卵などの凍結保存は,ほとんどが高濃度凍害防御剤を用いたガラス化法によって いる. しかし,単一細胞あるいは小寸法の単純組織にはある程度有効なこの方法も,臓器 などのような大型で複雑な構造を持った生体組織の凍結保存については,まだ問題を 抱えている.凍害防御剤の組織内への一様な吸収,組織全体の均一な冷却,高濃度凍 害防御剤による被毒などの問題はほとんど未解決のままである.
4.おわりに
低温生物工学は,常温以下絶対零度までの温度域における生体の諸現象の科学的な 解明と,その応用技術への展開を目的とする学問である.工学のほとんどすべての分 野と,医学・農学を含む広義の生物学との境界領域であり,対象となりうる研究開発 の課題はきわめて多岐にわたるが,本稿では主として医工学に関連する話題に限定し て述べた. Hippocrates以来,二千数百年に及ぶ医学の歴史の中で,低温医学の歴史はまだ日 が浅い.本文中では,日本におけるこの領域の発展の経過についてはほとんど触れな かったが,これについては隅田[7][8]による解説などをお読みいただきたい.文献[7] によれば,日本では低温医学会が1974年に発足し,以来毎年学会が開かれている.筆 者の関係しているところでは,一昨年(1995年)それまでの「凍結及び乾燥研究会」が 「低温生物工学会」と呼称を変えている.この学会には,工学・医学・農学・水産 学・低温生物学など多様な分野の研究者・技術者が参加し,毎年1回シンポジウムが 開かれている. 現在,低温生物工学はいろいろな方面から注目を浴びているが,生物という超複雑 系を対象とし,その構造の基本が細胞というミクロ要素にあり,しかも生命活動とい う人間にとって最も本質的でありながら最も理解し難い現象を取り扱うところから, 多くの未解決の課題が手付かずのまま山積している.恐らく,この分野の発展を「歴 史」という観点からまとまった形で記述するには,もう半世紀は必要であろう.この ことを言い訳として,この雑文を終えることにしたい.
5.引用文献
[1] Benzinger, T.H.(ed.), "Temperature, Part 1 (Art and Concept)," Dowden, Hutchinson & Ross, Inc. (1977), p.31.
[2] Rubinsky, B., "Recent Advances in Cryopreservation of Biological Organs and in Cryosurgery," Proc. 8th Int. Heat Transfer Conf., San Francisco, Vol.1 , (1986), pp.307〜316.
[3] Chato, J.C., "Heat Transfer in Bioengineering," in Advanced Heat Transfer, (Chao, B.T., ed.), University of Illinois Press (1969), pp.395〜414.
[4] 阿曾弘一, 隅田幸男(編),「低温医学」,朝倉書店 (1983), pp.421〜451.
[5] 蔵本新太郎, 「凍結手術の今日のトピックス」, 冷凍, 68-787 (1993), pp.482〜488.
[6] Fahy, G.M., "Vitrification," in Low Temperature Biotechnology (McGrath, J.J. and Diller, K.R., ed.), ASME BED-Vol.10/HTD-98 (1988), pp.113〜146.
[7] 隅田幸男, 「医療における低温の利用」, 冷凍, 64-745 (1989), pp.1225〜1250.
[8] 隅田幸男, 「血液・臓器・精液貯蔵」, 冷凍, 71-819 (1996), pp.50〜58.