北海道大学大学院工学研究科機械科学専攻 博士後期課程二年 片桐 一彰 会場まで通う必要のない今般の学会は,実にゆったりとしていた.私はこれまでに 三度の研究発表をさせて頂いたが,正直なところ自分自身の発表で精一杯となり,余 裕はなかった.しかし,ようやく今回は,諸賢の御講演にもある程度は傾注できたと 思う.それには勿論,寝食を忘れて親睦を深め得たことが大きく,親しみをもって講 演を拝聴する良さを知った.また,何件かのレクチャ−は興味深く,その質疑応答の 様子には,かなりの感慨を憶えた.「精神年齢の低い人の発言を歓迎する」とされた が,話し下手を自戒してしまい残念である. 若手の感想ということであるが,その特徴の一つとしての経験の浅さを思うとき, 学会ほど有意義である場は少ない.どのような研究が行われていて,その研究に対 し,いかなる批評がなされるのか.私の場合,たとえ講演自体は面白くなくとも,そ の研究の背景や経緯がわかり,活発な議論が交わされると,時間の経つのを忘れる. 何が自分の研究に関わっているかわからないし,自分の研究に近ければ近いほど,十 二分に認識したい.何も学会に限らないが,人の話をよくよく聞くことは大切であ る.学会では,発表をよく聞いて,その研究をいわば仮想的に経験できる. ところで,ある特別講演によると,ユニ−クな発想をするには意識が規制されては ならないという.活字ですら意識を規制するらしい.私にいわせれば,ユニ−クな若 者ほど規制を嫌うが,既成の規制に従って経験を積めば効率よく意識が形成できるこ とに気づくべきである.一方,意識の規制に熱心なのは,度量もないのに組織を動か そうとする老輩方に多い.おおよそ,ユニ−クな発想は,ユニ−クな個人がもたらす ことを知らない.私は,研究を進めていくには,多少の意識の規制も発想も重要だと 思う.ただ,経験を積むにしたがって,無意識のうちに,意識の規制にのみ夢中にな る可能性は大いにある.経験を積むほどに,何らかの思考枠は生成される.意識規制 の最たるものが,よくいわれることだが,枠におさまらず理解されない対象には,烙 印を押すという行為であろう.このように考えれば,学会に参加し,多くの講演を聞 く態度や心構えは結構難しい. 最後に,経験の浅さは生意気とも紙一重であるが,やはり私が初めて参加した学会 でいわれていたことは印象深い.−効率は落ち,最終的には予定していた成果が挙げ られないかも知れないが,やればできる(研究のための)研究や,時間とともに消え てしまう成果しか生まない研究から,意義があり,また有用なものとして残る研究− ができるよう精進したい.